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山岡鉄次物語 父母編6-1

《ふたりして1》ヤミ屋

☆頼正は度々、珠恵の働く工場の松本家に来ていた。

終戦直後、配給制度は形骸化していてあらゆる物が不足していた。
特に都市部では食料が無い状態だった。
この頃、食料を始めとした物資の闇取引は生きて行く為に止むに止まれぬ行いであった。

終戦直後の日本では、生き残った兵隊の復員や引き揚げで人口が増えていたが、政府の統制物資は底を突き、配給制度は麻痺していた。
農村部の作物も破壊された交通網では流通が難しく、都市部の人々の食料や物資は不足していた。

東京上野駅付近では毎日餓死者が数人いて、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死者が出た。

この頃の食料不足は米国からのララ物資があったものの、不足を埋めるには至らなかった。

ララは、米国が設置を認可した日本向け援助団体で日系人が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
ララの支援物資は、昭和21年から昭和27年までに行われ、重量にして1500万キロ余の小麦粉や脱脂粉乳などの物資で、食糧は全体の75%以上となっていた。
多数の国家、民間人、民間団体からの資金や物資の提供で、その救援総額は推定で当時の400億円といわれている。
支援物資の脱脂粉乳は、高齢者なら覚えている学校給食のミルクだ。不味いミルクでも栄養不足を補ってくれたのだ。
米国は当初、ララ物資が日本人や日系人が関わっていたことを隠していた。

都市部の焼跡の空地にはテキ屋が取り仕切るヤミ市が出来て多くの人が食料を求めた。
全国の一般の人々も取締の目をかいくぐって、食料等の物々交換の闇取引をして何とか食いつないでいたのだ。

ヤミ市の最初の頃は物々交換のようなもので、ざるにのせた野菜、石油缶に入れた魚を売っていた。
しばらくすると雨戸を販売台にして、生活用品の市らしくなった。
さらに一間四方の店が作られ、うどんやおでん、カストリ焼酎などを売るようになった。
カストリ焼酎とは工業用アルコールなどを原料にした粗悪な密造酒の事で、酒粕から造られている粕取り焼酎とは別物だ。

大半は食べ物屋であったが、日本軍や連合軍からの放出品、残飯なども上手に使い回され、飛ぶように売れた。

食糧管理法はまだ生きていたので、配給以外で入手した食料は当局によって没収された。

放出品や横流し品などの生活必需品を販売する者も現れた。
人工甘味料のサッカリンや石鹸を自作して販売する者もいた。


敗戦の4日後に新宿駅東口に最初のヤミ市が出来ると、その後各地にヤミ市が広がっていった。
空地の出店はテキ屋の組織が地割を仕切るようになって、地主に立ち退きを要求されると暴力行為に及ぶものや、立退料を請求したものもいた。

昭和25年政府は水産物の統制を撤廃した。
同年、大蔵大臣池田勇人は緊縮財政のなか、国会で「貧乏人は麦を食え。」と答弁した。
これにより、白米が手に入らない国民の反感を買ったが、昭和26年には麦の統制撤廃を行った。
米以外の食品は全て自由販売となり、闇物資ではなくなった。

頼正は塩島のところの仕事が無い時は、工場主の所に豊富にある布地の反物を預かりに来ていた。

頼正は反物を身体に隠して米作りが盛んな千葉や茨城まで運び、米と交換して食料の不足している都市部で現金に変えて、工場主の所に戻るのだ。
工場主に反物の代金として一定の金額を支払った残りが収入となって、かなりいい稼ぎになった。
もちろん途中で取締に会うと没収されてしまう危険もある。

頼正はヤミ屋商売をしていたのだ。

珠恵は姉の家と勤める工場の両方で、頼正と何度となく顔を会わすようになっていた。
次第に、お互いに惹かれ合うようになっていく2人であった。

ある日、珠恵は頼正に誘われて、反物を担いで闇取引に同行する事になった。

2人きりではなかったが、頼正と珠恵の初デートはヤミ屋商売の旅だったのだ。
それぞれが持てるだけの反物を担いで、検閲に注意しながら茨城県までの電車の旅を楽しんだ。

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