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城ケ丘公園と公衆電話

昭和の公衆電話には次の種類があった

赤電話
委託公衆電話。
電電公社が駅や商店その他に管理を委託していた電話の事。
一般加入電話と区別するために赤になった。店頭に置くタイプなので盗難防止のため店などが
閉店すると店内にしまわれる。

青電話
通常の公衆電話、台座に固定されるようになり24時間利用可能となった。
赤電話がこれに交換されていった。
10円玉を10枚入れれるようになった。

黄色電話
100円玉が利用できるようになった公衆電話機。昭和47年(1972)12月から正式に採用されました。
硬貨投入口が10円用と100円用の2つあるほかは、当初外観は大形青公衆電話機と同じで、
正式採用にあたってシンボルカラーは黄色になりました。
ダイヤルからプッシュになった最初の公衆電話でもある。(最初は黄色でもダイヤルだった)

ピンク電話
飲食店などの店内に店舗の運営者などが設置する公衆電話の事。
公衆電話回線を利用せず一般加入者回線を利用していた。

緑電話
テレホンカードが利用できるようになった公衆電話。

1979年、自宅の近所に城ケ丘団地という市営住宅があり、その敷地内には小さな公園が併設されていた。
そしてそこには黄色の公衆電話ボックスが設置されていた。
当時2歳だった私は、母親に時々連れられて公園で遊んだものだった。
そしてある日のこと、いつものように母が「ちょっと待っててね」と私をベンチに置いて電話ボックスのある場所まで行き受話器を取った。
しかし電話機が故障していたのだろうか、利用できない状態だったのだ。
母は何度もボタンを押してはかけ直したりを繰り返したのだが、やはり何度やっても繋がらなかったようだ。
そこで母は私の方に向かい歩きながら言った。
「公衆電話使えなくなっちゃったみたい。もうすぐパパ帰って来るからそれまでお利口に待てる?」
そう言ってまた公衆電話の場所へ戻ろうとしたその時だった。
なんとその電話ボックスの中から頭が半球の金属製のアンドロイドのようなものが現れ、母の手を掴んで電話ボックスの中に引きずり込みドアを閉めたのだ」
「キャーッ!!!!」
あまりの恐怖に叫んだ母だったが、次の瞬間には母は気を失ってしまっていた。
私はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
そしてガラス張りの電話ボックスごと一緒に消え去った。
あまりの出来事に一人で泣きながら自宅方向へ歩いた。
その途中、隣の老夫婦と出会った。
いつもお世話になっている優しい老夫婦である。
詳しく事情を説明したが、あまりに非現実的な話であった為「だいじょうぶだよ」と慰めてくれた。
そして、
「ジュースとお菓子食べながら、おじさんの家に上がってママを待とうよ」
と提案してくれた。
家には誰もいないので私はその好意に甘えることにした。
それからどれくらい時間が経ったのか分からない。
ただいつの間にか眠ってしまっていたようだった。
目が覚めると目の前にはおじさんとおばさんがこたつにいた。
私は驚き飛び起きた。
「あら!よく寝れたかい?」
と老婦人が話しかけてきた。
「あれ……」
私がそういうと、
「良かったね、ママが迎えにきてくれたよ!」
と笑顔で言った。
すると玄関の方には父と母の姿があった。
どうやら夢だったのだろうか。
「ありがとうございます」
母は礼を述べた。
その帰り道、父がこんなことを言い出した。
「あの公園にあった電話ボックス、実は最近調子悪かったらしい。まさかそんなことになるなんてね」
と言っていた。
夢ではなかったのだろうか。
今でも不思議な出来事としてはっきり覚えている。

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