言葉では伝えきれないのに、わたしには言葉しかない。
ESで自己PRや志望動機を書いたり、面接で話したりしながら、伝えることがいかに難しいかを悟った。
いや、そんなことは昔からわかっていた。
でも、noteで好き勝手書いていたら、なんとなく伝えられている気になっていた。
「書きたいことだけ書いている」なんて「好きなことだけ見ている」くらい狭いのに、何の慢心だろう。
本当に言いたいこと、本当の気持ちはやっぱり何も言えないまま、伝えられないまま、月日が過ぎていた。
思い返すと、大学入試の小論文。
お題の文章は、たしか、学術論文について。
論文は、分かりやすくすれば誤解や本来の文脈との齟齬が生まれてしまう可能性がある。一方で、分かりやすくしなければ研究者にしか通じないといった内容だった。
わたしはそこで、
分かりやすくしようがしまいが、人には主観やバイアスがあるから、思考をすべて同じように解釈するのは不可能。
みたいなことを書いた。
結論をどこに持っていったかは忘れたけれど。
結局、高校3年の私が考えたことと現実はそう大差ないのかなと思った。
すべてを伝えるなんてことは不可能だ。
言葉で伝えられることも一部だし、そもそもわたしにはまだ、言語化できるものも限られている。
言語化できていないモヤモヤをいくつもいくつも抱えながら、なんとかESを書き、言葉にする。
どうして気持ちはあるのに、「御社に入りたいです!」という言葉にしかならないのか。
その程度の考えしかないし、その程度の言語化能力しか持っていない自分が恨めしい。
わたしには、音楽を作ったり絵を描いたりする力はないし、演技や踊りや歌で身体全体から表現をすることもできない。
わたしが何かを伝えるとなったら、言葉や身振り手振りや態度しかないのに、その肝心な言葉が出てこない。
そりゃあ何も伝わらないわけだ。やっぱり悔しい。
もっともっといろいろなものに触れて、情報を蓄えて、日々考えることをやめず、言語化を怠らない。
それしかないのに、それが形になる日が遠すぎることにも、後悔が募る。もっと昔からそういう習慣を作っていれば、と。
ただ、どこまでいっても、この気持ちはなくならないとも思う。
完全に伝えることなんか、できないのだから。
でも、どこまでいっても、この気持ちはなくならないでほしいとも思う。
完全には伝えられなくても、伝えることを諦めたくはないから。
言葉なんて、不完全で不十分で不足ばっかり。
でも言葉がなければ、肝心なことは何も伝わらない。
言葉に翻弄されている。
たぶんこれが、言葉と生きていくってことなんだろう、と微かに感じた。
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