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初見殺しのジレンマ

 ミステリを書いていると、小説を書いているのかゲームを作っているのかわからなくなることがある。いま書いている作品はゲーム性が強いので、なおさらだ。

 ゲームの難易度調整(レベルデザイン)にはいくつかの方法がある。

・敵の力を強くする
・敵の量を多くする
・敵に有利な状況を作る

 最も単純でよくあるのが「敵の力を強くする」だろう。往々にして敵の強さはインフレしていく。
「くくくく……私の戦闘力はウン万だ」
「ならばこちらは戦闘力ウン十万だ!」
 とまあ、このように際限なくインフレしていく。
『スーパーマリオメーカー』の例を挙げれば、クリボーをゴツゴツメットにしたり、緑コウラを赤コウラにしたり、ベビークッパをクッパにしたり、クッパを巨大化させたりと、敵単体の強さを上げていく手法だ。

 もうひとつ「敵の量を多くする」のも有効だろう。単体では弱い敵であっても、寄り集まれば強大な力を発揮する。いわゆる「無双系」ゲームの考えかただ。雑魚の敵でも群がれば見た目に威圧感があり、四面楚歌に立たされたような感覚になる。
『スーパーマリオメーカー』でいえば、クリボーを縦に積み重ねたり、横に何匹も並べたりすれば、それだけで難易度が上昇する。
 一見すると無理だと思われた敵陣を一網打尽にできたときのカタルシスが大きいのも、この手法の楽しみのひとつだろう。

 さて問題は、残るひとつ。
 彼我の戦力差はほぼ同じか、敵方がやや上回るかといった状況で「敵に有利な状況を作り出す」ことでハードルを上げるパターンだ。
 この手法は一見すると戦力が拮抗していて一進一退のヒリヒリする攻防を演出できるが、いわゆる「初見殺し」になりやすい諸刃の剣である。ときにはそれが面白さを削ぐ致命傷にもなりかねない。
 たとえば『スーパーマリオメーカー』であれば、一度の失敗(=ステージ外への落下)も許されない状況下で、ヒントひとつなしに二分の一の確率で落下してしまうクジのような落とし穴ゲームを作ったら、それはもうゲームではなくなってしまう。同じクジが二回続けば、成功率は二分の一から四分の一になる。ゲームオーバーを繰り返しながら習熟を重ねていくのはただの不毛であり、ゲームとしての面白さに欠けてしまう。
『スーパーマリオメーカー』には、ステージの作り手が投稿前に必ず一度クリアしなければならないルールがある。これが平等性を保つ策となっているのだ。しかし、ステージクリアのために「作り手だけが知っている情報」を知ること/再試行を重ねて突き止めることが必須になるのであれば、それはもう平等な条件下でのゲームとはいえない。
 RPGでよくあるのは「状態異常の付加」だろうか。敵だけが使えるスキルで味方に状態異常をつけられてしまうと、対応するのが非常に厄介になる。『ペルソナ5』も結局のところ状態異常対策が最も重要であった。
 いま遊んでいる『シャドウバース チャンピオンズバトル』はもっと露骨で、敵方がインフレしてくると、解禁されていないパックのカードを敵方だけが普通に使ってきたり、あるいは一方的に敵方に有利な特殊ルールで複雑なコンボを決めてきたりする(しかもデッキを選ぶ前に特殊ルールが明かされずに)。シャドウバースの場合はゲームオーバーがないし、敗戦を重ねながら相手デッキの傾向と対策を練り、自分なりに対抗策を考えてデッキを組んでいくという知的な面白さ、奥深さがあるから、まだ成り立っている。苦労して勝ちきったときの喜びはかなり大きい。が、デジタルカードゲームではデッキから引くカードの順番は運に任せた一期一会、どちらに転んでもおかしくはない戦力均衡を期したルールである以上、条件の不均衡によるレベルデザインのやり過ぎは興を削いでしまうだろう。

 ミステリにも同じことがいえるかもしれない。読者はつねに情報量ゼロから読み進めるのだ。どうにか言葉を尽くして作り手の脳内と差異の少ない土俵を読者の脳内にも作ってあげて、同条件下で推理ゲームが楽しめるようにしなければならない。どれくらい解決のためのヒントを明かしていくか、難易度の按配も非常に難しいのだ。間違っても初見殺し(たとえば伏線もヒントもまったくない状態で、作者が創作した新種の疫病が被害者の死因であったとか)があってはならない。

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