【掌編習作】 曜日、売ります
これは不要不急ではない、と自分に言い聞かせ、彼はスーパーのレジ袋を片手に提げたまま、その怪しげな店の引き戸を開けた。
駅から三ブロック先の交差点のごく狭い角地に、いつの間にか見知らぬお店ができていたのだった。
「曜日、売ります」
看板には、確かにそう書いてある。
売る? 曜日を?
彼はえも言われぬ興味を覚えたのだった。
「ごめんください」
店内に足を踏み入れると、透明のショーケースに、色とりどりの機械が並べられていた。加湿器というのかアロマディフューザーというのか、直径二十センチくらいの可愛らしい水滴型の機械だ。値札に書かれた商品名は文字が小さく、やたらと長ったらしかった。
「月曜日 午前六時 海岸を散歩してから出勤したくなるような初夏の青空」
「水曜日 午前八時 ゆったりコーヒーブレイクしてから出勤する秋の朝」
「木曜日 午前六時 星を見上げながら出勤する清冽な冬空」
「金曜日 午後五時 浮かれる人々を横目に気合いを入れ直す夜勤者の夕暮れ」
曜日ごとに五種類あって計三十五種類、価格は一律で、一個税別三〇〇〇円。ただのアロマディフューザーだと思えば、大して高い値段だとは思わない。お好みのシチュエーションをイメージしたアロマを噴出する――おおかたそんなところだろうと、彼は見当をつけた。
「あら、いらっしゃいませ」
店の奥のデスクに座って文庫本を読んでいた女性の店員が、彼に気づいて顔を上げた。
デスクといっても狭い店内のことだ、ノートパソコンが一台置かれてあるだけで、プリンターも書類ケースもない。パソコンの画面には、SNSのタイムラインが映ったままだった。
「ゆっくり見ていってくださいね」
女性はそう言って、にこりと彼に笑みを向けると、当然といったように文庫本に視線を落とした。
「あのう……」
彼はおずおずと切り出した。
「はい」
女性が再び顔を上げる。いまどき珍しい、店番を任されただけのアルバイトなのだろうか、まるで十代の学生かと見紛うくらいに若い。久しく若い女性とまともに話していなかった彼は、一瞬どぎまぎした。
「曜日を売るっていうのは、つまり、曜日をイメージした香りとかそういうのを売ってるってことですか」
「いいえ」
ようやく文庫本を閉じた女性が、彼に向き直った。
「じゃあ、この機械はなんなんですか」
「ですから、曜日です。こちらの商品を枕元に置いていただければ、特定の曜日にだけ起動して、商品名どおりの季節、時間、日光を、お部屋に忠実に再現いたします」
「はあ」
「曜日の感覚、ご入用ではないんですか」
「ええ、まあ」
彼はぎこちなく頷いた。
未知の感染症の世界的な大流行を受け、世の中が基本テレワークに移行してから、もう十数年が経つ。シャッターを開けているのは飲食店やスーパーマーケット、ドラッグストアといった「不要不急でない」生活必需品を売る店ばかりで、自宅外の職場に出勤するのは医療従事者、インフラ関係者、物流・輸送関係者など、ごく少数の人に限られている。目に見えない、罹れば死に至る病に疑心暗鬼になって、政府や自治体に要請されずとも、誰もがすすんで自宅に籠もったのだった。自然、人が密集するライブハウスも、パチンコ店も、およそエンターテインメント施設といったものは消滅した。衣食住のうち「衣」はVRで試着ができるネットショップで事足りたし、引っ越し業者が激減したので「住」の移動はほとんどなくなった。
不要不急の都市間の移動を避けるため、そして大気を介した感染を避けるため、県境をまたぐ道路や鉄道の通行はすべて許可制となり、各都市を覆う巨大なドームが建造された。物理的なロックダウンだ。
都市のドーム化が実現したことで、天候や気温はすべて最先端の科学技術によってコントロールされ、四季も温暖化も自然災害も過去のものとなった。夏の酷暑もなければ、冬の極寒もない。土砂災害の心配はないし、台風のたびにガラス戸を補強しなくて済む。気温は一年を通して、人間が最も快適とされる摂氏二十度前後に保たれ、熱中症や凍傷など、もはや死語だった。
人類は、自宅にいながらにして社会生活を完結させられる楽園を手に入れた。というより、そうすることを余儀なくされたのだった。
教育も、ビジネスも、すべてがインターネットを介したリモートで動いていく。
男女はバーチャル空間で出会い、好意を寄せ合い、結婚するときにだけ、どちらかの住居に移る。
今年三十歳になる彼が就職したときには既にフルリモートの世の中になっていたから、就職面接や研修は自宅のパソコン越しに終えたし、社長や上司、同期とは一度も顔を合わせたことがない。ただひたすら毎日、画面越しに仕事をこなし、毎月決まった日に、決まった額の給料が振り込まれるのを確かめる。下手すると、ネットバンクの残高を確認しない月すらあった。つつがなくこの仕事を続けていれば一生安泰、いつかネットで知り合った誰かと人並みに結婚し、人並みに子供を産んで育てるのだろう。彼はそう信じて疑わなかった。
ありがたいことに完全週休二日制で、暦通りに土曜、日曜、祝日が休みになる仕事だったが、「曜日の感覚」なるものは確かに麻痺している自覚があった。そもそも曜日の感覚があったためしがない。代わり映えのしない海上で曜日の感覚が薄れた昔の軍人は、週末に必ずカレーを食べたという。そうまでしてなぜ曜日の感覚を得たかったのか、彼にとっては疑問だった。
朝、目を覚ますと、スマートスピーカーが今日は何曜日か知らせてくれる。それに従って、平日は手早く朝食を摂ってパソコンに向かうし、休みなら「ラッキー」とばかりに日がな一日ゲームやアニメを楽しんで時間を潰す。外出するのは数日に一度、尽きた食糧を買い出しにいくときだけ。休みの日も終わる頃には飽きてきて、明日はまた仕事でもいいかな、と思い始める。
「曜日の感覚があると、人生にメリハリが生まれますよ」
女性の店員の真っ直ぐな目に見つめられ、彼の心はざわついた。メリハリ。抑揚のない毎日を送っている彼とは対極にあるような言葉だった。
「メリハリをつけて、どうするんですか」
「心が豊かになります。同じような毎日の繰り返しじゃあ、つまらなくないですか」
「平穏無事ということも、ありますけどね」
「私のおすすめは、こちら。木曜日です。朝起きて木曜日だったら、ちょっと嬉しかったり、しません? あと二日お仕事すればお休みだって。金曜日はなんだかそわそわしちゃって、嬉しいと同時に焦ったりもするし、どうしても今週中に片づけなきゃっていうお仕事に追われることもあるけど、木曜日は負担が少ない気がする。いかがですか」
「はあ」
「理想はご自宅に七個揃えて、曜日ごとに違うお天気を楽しんでいただきたいところなんですが、一個からでも十分に効果はありますよ」
「では……たとえば、これ」
彼は棚の一角にある商品を指さした。
「こんな日も、再現できるんですか」
「ええ、もちろん」
女性は即答し、白い歯を覗かせた。
「これ、いただけますか」
「かしこまりました。お包みしますから、しばらくお待ちください。あ、恐れ入りますが返品交換は不可となっていますので、その点はあらかじめご了承くださいね」
***
その日の朝、彼は布団からなかなか抜け出すことができず、生まれて初めての寝坊を経験した。始業の朝九時を過ぎても布団にくるまったままで、ようやく起き出してきたのは十一時を過ぎてから。おまけに、モニターの向こうで顔を赤くして怒っている上司に対し、彼はいともたやすく退職願を送りつけた。にもかかわらず、彼の表情はやたらと清々しいのだった。
彼はデスクから離れて枕元に立つと、その小さな機械を愛おしげにひと撫でした。
「月曜日 午前十一時五分 春眠暁を覚えず。思わず仕事を辞めたくなるような早春の週明け」
春といっても、外は肌寒い。室温計を見ると、十度前後だった。
ぬくぬくとまだ温かい布団が、彼を待ち受けていた。
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