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幼い子が遊ぶように生きられないのはナゼなのか?

先日、散歩の途中、公園で幼い姉妹を遊ばせているお父さんを見かけました。

お姉ちゃんは地面に向かって黙々と作業をしており、妹の方はお父さんに何かを見せに近寄っていくところでした。思い思いに好きなことをする様子が、とても微笑ましいと感じたのです。

そこから、娘たち二人が小さい頃のことが自然に思い出されました。

小さい頃の娘たちは、本当に子供らしい子供で、本当にかわいらしかった。親の贔屓目は抜きにして、自分の中にある子供の好ましさをふんだんに持って生まれてきてくれたことは本当に幸せなことでした。

私が思う子どもの好ましさとは、罪がない、穢れがない、無垢、イノセントな感じといって伝わるでしょうか。
さらいえば、賢しらさがない、つまりエゴが薄い、つまりまだ人間らしくなく神さまの世界にいた頃の余韻をたくさん持っているような感じです。

そんな娘たちが遊ぶ様子は、いつも本当に楽しそうでした。

近所の公園でもいつまでも飽きずに遊具で遊んでいましたし、何もない芝生でただ走り回るだけでも幸せいっぱいの満面の笑顔を見せてくれました。
雪が降れば家の前で手袋がびしょ濡れで小さな手が冷たく真っ赤になっても気にも止めず雪をいじって遊んでいました。
旅行先では、野山で夢中でトンボを追いかけ、海や湖など水辺では飽きずに水遊びしていました。

それにしても、幼い子供というのはなんであんなに楽しそうなんでしょう。また、どうしてあんなに一心不乱に夢中になって遊び続けられるのでしょう。

不思議に思いませんか?

子供だから当然でしょと思うかもしれません。

日々やらなきゃいけないこともあるし、生きていくには考えないといけないことも多い。

子供みたいに遊んでいればそれでいいというわけがない、それが大人というもの、大人の分別だみたいな思いは湧いてこないでしょうか?

でも、よく考えたらそれはおかしいことがわかります。

子供たちがあんなに楽しそうなのは、子供だからではありません。

生きることとは、命とはそういうものなのです。

つまり、生きているだけ、ここにいるだけ、存在しているだけで、うれしさや楽しさが溢れてくる、それが生命の本来の姿と言えます。

そうであれば、大人になるにつれて、その性質を失うのは尋常ならざることではないでしょうか。何しろ命が命でなくなるようなたいへんな事態です。

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幼い子供が遊ぶように、つまり、この世界に存在するよろこびに溢れて生きられない原因。

わかりやすいものを挙げるなら、それは早い時期に自分を愛することをやめてしまうからです。

直接的には、親が条件付きの愛で子供を縛るのが原因です。子は親に見放されると生きていけないので、自分を抑圧して親の要求に応えるようとし、いつしか自分は不完全で欠けた存在と認識し、自分を愛せなくなるのです。

もちろん親は悪気があってそうしているわけではありません。親自身がそのままの自分では生きていけないという恐怖の世界観に囚われていて、なおかつ、自分を嫌っているので、子供に本来の意味で自分を愛することを教えられないのです。

けれど、それに気づくことができれば、大人になってからでも、自分を愛することを取り戻すことができます。

そこが本当の意味で自由な人生、命をまっとうする生き方につながる入り口です。

以上

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