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わたしのこと③

❤️❤️❤️

こんばんは。
冷え込みが厳しくなってくると
チョコレートが恋しくなるの
なぁぜなぁぜ?←

さて、今日は自分の生い立ちの続きを
書いていこうと思います。
あと1回くらいで完結できそうなので
もうしばらくお付き合い頂ければと思います。

それでは行きます
レッツゴー!
※前回の記事はコチラ
↓↓↓

親の顔色を伺って入学した高校でも
もちろん部活は続けました。

でも、チームメイトとの
モチベーションの違いから
練習中も学校生活もやりにくかった!爆

進学を断念した強豪校への執着から
誰よりも練習して勝ちに拘っていました。
でもそんな自分にブレーキがかかりました。
左膝の前十字靭帯損傷。

高1の冬でした。
手術しないと治らない。
でも手術したら高校3年間は
もう競技復帰できないかもしれない。

絶望して、学校ごと辞めようか。。
そこまで考えました。
でも、意地でも大学まで行かせたい
親と衝突し、退学は踏みとどまりました。

部活も辞めようかどうしようか悩んだとき
主治医から温存してみるか、と提案され
イチかバチかやってみることに。

結果、半年後に競技復帰して
自分の代で副将になり
悲願の全国大会初出場も果たしました。
(一回戦で負けたけど苦笑)

高3の夏、引退と共に進学先を決める時期。
中学の頃から体育教師になりたくて
体育大学を目指していた。
今度こそ県外の強豪校に行きたい…

その思いも虚しく
2歳上の兄が県外の有名大学に合格し
二年前から下宿生活をしていたため
私に県外の大学に進学する選択肢は無かった。
※経済的に、県外は3人のうち1人だけ、と言われていたので

そんなタイミングで温存していた左膝を
再度怪我した。
もう手術しか道は残っていなかった。

二度目の怪我で
私は県内の体育大学への進学も断念した。

怪我した状態で入学したら部活は愚か
授業もままならないだろう。
その状況に自分が耐えられる
自信がなかったからだ。

県内の普通の女子大に指定校推薦で
進学することに決めた。

その年の冬に左膝の手術もした。
競技復帰する気もなかったので
日常生活復帰のリハビリを組んでもらった。

術後1か月入院した。
膝にはいかつい装具を着けて松葉杖で退院した。
部活に生きてきた私は、部活のない人生が
これから始まることに絶望していた。

目標を失って、どうしていいか分からない。
左膝の装具も他人に見られるのが嫌だった。
自分の存在にも絶望し、摂食障害になった。
一番酷いときで156㎝37㎏だった。

大学に入学して健康診断のとき。
保健課の先生から病院へ行くよう勧められた。
低体重、摂食障害なので生理も止まっていた。

幸い、婦人科の医師が理解のある方だったし
大学の保健課の先生とも自分の相性が良く
1年以内に元に戻すことができた。

大学1年の夏休み。
やっと左膝の装具が外れた。
そこからだいぶ明るさを取り戻していった。

自分がごりごりの運動部出身ってことを
知らない女の子たちしかいない学校。
最初は不安しかなかったけど、少しずつ
色んな友達ができて学校が楽しくなっていった。

大学2年になる頃には
部活がなくても生活を楽しめていた。
ハンドボールは友達の試合を見て
楽しむもの、という位置になりつつあった。

途中でほんの少しだけ
中学の恩師の学校へ教えに行ったりも
したけど外部コーチに登録するまでは
やらなかった。膝のこともあったし。

それよりも、大学の友達と居るほうが
心地よくなっていた。
バイトもスポーツ用品店からセレクトショップに
変わり、色んな世界を見たいと思うようになった。

人並みに大学生活を満喫して就職した。
氷河期だったのでそれなりに苦労した。苦笑
この会社で夫と出会い結婚した。
当時、夫が海外赴任していたので退職した。

自分がこんなに早く退職するとは
全く想像していなかった。
何なら会社のお局(死語?)になると
想像してたくらいだから。(笑)

さて。
次回がわたしの生い立ちについては最後。
結婚後に始まった海外生活のこと。
そこから出産するまでを書いていこうと思います。

今日もこんな長文でまとまりのない内容を
読んでくださりありがとうございました。



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