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ホームレスになる人とならない人の違い

大企業が集まる某駅のコンコース、出勤する大勢のサラリーマンたちの傍ら、1人の男が正座で座っていた。
特別汚い格好をしているわけではなかったが、どこか生気が無いようだった。私はあまり気にせず通り過ぎたが、やはり少し気になり振り返ってみると、男の前には小さな紙コップが1つ置かれていた。
やはり、ホームレスだったようだ。おそらく"施し"を求めていたのだろう。

しかし、誰も立ち止まることは無かった。

出勤で急いでいるというのもあるだろうが、1分や2分、立ち止まることはできたはずだ。男の人が"施し"を求めていることを分かっていた人も大勢いたはずだ。

みんなが立ち止まらなかった理由はいくつかあるだろう。

  1.  立ち止まって"施し"を与えている自分が目立つから

  2. "施し"そのものを与えたくないから

などであろうか。

  1.  立ち止まって"施し"を与えている自分が目立つから
    確かに、あの大勢の人が忙しなく歩いている中で立ち止まり、男に話しかけるのはかなり目立つし、やりづらいだろうと思う。人目を気にするような人はまず無理だろう

2.    "施し"そのものを与えたくないから
正直、こう考える人も多いだろう。

①お金持ちになったのは自分の努力によるものだ。
  →貧乏になるのも自分の責任だ。

②行政に頼ればいいだろう。仮宿舎だってあるし、生活保護制度もある。
  →仮にこれらの制度を知らないとすれば、それも自分の責任だ。

特に①は著名人からもこのような発言を耳にするし、こう考える人も多いかもしれない。しかし本当にそうだろうか?

インドやカンボジアなど貧困層の多い国では、道端などで”施し”を求める人達が大勢いる。しかし日本と違うのは、みんなしっかり”施し”を与えていることだ。そして興味深いのは、”施し”を与えるのは富裕層ではなく、中間層であるという点だ。中間層といっても、アジア諸国では日本と比べればかなり貧しい。しかしそういった人たちが積極的に”施し”を与えるのだ。なぜだろう。

・貧しい人たちの痛みがわかるから
・明日は我が身と思えるから
・自分は"運"が良かっただけと思うから

などであろうか。

親ガチャ

親ガチャという言葉を最近よく聞く。
親をおもちゃみたいに言うなよ、、と思うが、言いたいことはまあ、わからないでもない。

結局、人生、"運" なのだ。

生まれた家庭が貧乏であれば、当然、子供の学費に割けるお金も少ないだろう。そして子供の学力は低くなり、大学には行けず、結果、大企業などには入れない。と、こうなる可能性が高いのは明白だ。

当然、子供が奮起して、お金に頼らない勉強を自力でやることだって可能だ。そういう努力ができる人だって中にはいる。しかし、そういう努力ができない人が大半だろう。

では、努力できない人が貧しければ、それは自分が悪いのだろうか?
努力ができる人が、努力ができない人を蔑むことは正しいのだろうか?

努力ができるのは才能だ。しかし、才能は生まれ持ったものではなく、生まれ育った環境による部分が大きい。つまり親ガチャと同じなのだ。
努力できるのも、"運"が良かっただけなのかもしれない。

"施し” と ”運”

"運"が良かったから、努力ができて、良い学校で学べて、良い企業に入れる。自分で起業してお金持ちになる人もいるだろうが、それだって、"運"良く努力できたというだけの話なのかもしれない。

別に全てが"運"だと言っているわけではない。
努力が素晴らしいことであるのは当たり前だし、私もそう思う。
私自身、恐らく人より努力してきたという自負はある。

しかし、"運"の要素が多分にあったことも認識している。
そしてそれは恐らく、みんな同じなのだ。
お金持ちになれた人は、当然自分の努力の成果もあるけれど、努力できること自体が運の要素が大きいからわけだから、お金持ちは税金をたくさん取られて、その税金は社会へ分配される。

そうやって、"運"の要素で得られたお金が、"運"がない人たちに分配されているのだ。

"施し"も同じだと思う。

自分は"運"が良かっただけだから、"運"の悪かった人にお金を分けてあげる。

偽善かもしれないし、偉そうに思われるかもしれないけれど、私はそう思える人間であり続けたい。

あの駅のコンコースで、男の脇を通り過ぎてしばらく歩いたあと、やはり引き返そうかなと思った。しかし、自分に適当な理由をつけて、やはりそのまま通り過ぎてしまった。

何となく、ずっと心に引っかかっている。






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