見出し画像

湧くまで待つ。

追伸:
アンケートは苦手。自分の答えが だいたい枠の外にあるから。
”次のABCの中で、当てはまるものに◯をつけて下さい。”とかいう手のモノは、勝手に”D"を作って、それに◯をつける。最近は自分に対しての融通が効くようになったので、そこまでのコトはないかな。
ちなみに自己紹介も苦手。自分の中を分別出来ないから。
Twitterアカウントの
くんちんぬ @kunchi_n _nu のプロフィールで小出しにしてるので
興味ある方は そちらでどうそ。
Twitter登録されてない方でも見れますよ。

ほぼ1週間前、
それなりに勢いよくnoteを始めたものの、押し寄せるような溢れんばかりの独り言は、あれ以来すっかりと無くなってしまった。
note登録作業中に、1度落ち着きはしたが、その延長線上で独り言が出なくなったワケではない。
感覚的に、今の状態は明らかに違うモノだ。
自分の中の独り言は、創作活動につながることが多く、自分への問いかけから連想ゲームに発展し、それを現実でやってみるって感じ。
と、書いてて今 気付いた 笑

マジで今回、
脳内の全ての創作がストップしている。
これは非常に珍しいことでもある。
興味の分野が幾つかあるんだが、コッチに関する独り言が止まったら
アッチに関する独り言が始まって、幾つかが うまい具合に回ってた、多分。
それがまるで何もひとつも湧いてこないんだよね。
強烈にループする独り言が、どの分野も全く出なくなってしまった。
過去の自分なら、取り組み始めた課題に向かって、手を変え品を変え
自分に働きかけ、搾り出させ、練り出させ、完成まで猛烈に追い込んだりしたが、今はもうしない。
そんなことをして出来たモノには、本当の自分が居ない。
無いモノを有るとして生み出したダミーみたいなもんだ。
楽しい創作活動を、辛くて苦しいモノに仕立て上げる自分の悪い癖。
そうやって血を吐きながら出来たものを美しいとした。尊いとした。
なぜにしてワザワザ "念” のようなモノを練り込んでいたのか。
創作活動そのものの柔らかさと しなやかさを自分は一体どこにやってしまうのか。こうやって書くと、なんだかひどい奴だな。
そんな自分とは もう おさらばしたんだがな。
時折そんな自分が出てくるので、その度に ちぎり取り
「いらない。いらない。」と つぶやきながら捨ててゆく。
過去の創作活動から手をひき「もう2度と何も創らないだろう。」と
誓いにも似た思いから、創作思考を捨てた4年間。
”創る”という意味を自分は知らなかったんだと気付づかされた。
あの人とあの人とあの人に。そこからね、そろりそろりと手にとり始めた。
noteもそのひとつである。

にしても、
なぜこんな現象が起きたのか、自分で自分に探りを入れる。
そうすると幾つかの要因が浮かび上がる。
創作思考が止まる原因は「心と頭が自由ではない」ってのが考えられる。
特に「心」。こいつに余裕と余韻がないと、全てが妨げられる。
本当に厄介な代物だ。人間は「心」によって司られてると言っても過言ではない、のではないかいな。

「心と頭が自由ではない」感じに
なっていそうな要因を ひとつずつ丁寧に吟味し、それに対する自分の思いを探る。色々出てはくるが、ひっくるめて大きく分けると「不安」と「心配」が出現。それならば、その対策を…となるところだが、対策をうってたとしても、不安と心配は無くならない。
うった対策が上手くいかなければ間違いなしに、また不安と心配が出る。
結局、永遠に対策し続けるしかなくなるが、そうそう優れた対策は無限に有るワケではないからなぁ。
だから「不安」と「心配」が出たら、それを摘んで捨てていく。
出た時に捨てていく。出なくなるまで捨て続ける。
そのうちに心と頭に隙間ができ、創作思考が始まるだろう。

しかし、
今回の要因には先がある。
それは分かってるんだ。この課題に正面から向き合うには、
まだまだ難しい。非常にキビシイ。
更にその奥の自分を掘り、自分を直視できる自分。
そうなるまでは、今、目の前にあることを淡々と。
可もなく不可もなくやり過ごす。
搾り出さず 練り出さず、湧いた自分を見たいから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?