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作家気分か。

最近、

外に出て創作活動する事が多い。
ひらけた場所で、その場所その場所の音を聞きながら文章を打つ。
と、言っても 野山では、Wi-Fiや電源が確保できないので、どうしても その両方か、もしくはWi-Fiが提供されている場所を探してからでの作業になる。
なので、大体の場所は決まってきてはしまうが、その中でも自分が創作思考になり易い場所を吟味することになる。
ちなみに音楽制作も そんな場所でしたりも。
もちろんイヤホンして、外への音漏れがないか確認してからだけどね。

それまでは、

家の中で作業をしていた。と言っても、創作活動を再開したのは ごくごく最近のこと。
なので過去に創作活動していた時とは、環境も違えば、自分自身の中身も違う。
過去は、創作活動し易い環境に整え、専用の場所も確保していたが、今はそういうワケにはいかない状況。
共有スペースの中の限られた空間しかない。
その場所が、創作活動に向いているかどうかは答えようがないが、
決定的な不足は「外が見えない」こと。

窓はあるんだよ、窓は。

でね、光も入るっちゃあー入る。
でもね、電気をつけないと見えにくいし、空や雲が見えない。
自然の感触が目で触れられない。
これは自分にとって、かなりの足りてない感。
過去にはない感覚だな。むしろ、暗室の方が冴えていたかも知れない。
頭ん中の思いが溢れ出そうな時なら、それこそ どんな環境下でも文章にすることは出来る。
だけど普段の創作は、ぼんやりとキッカケがあって それについて書いていくうちに方向が見えてくる感じ。
だから、お題やタイトルは、後の方につくことが多い。
本当に気ままな書き方だなぁ。
こんな気ままな書き方なので、途中でピタっと思考が止まることがある。
そんな時に大活躍してくれるのが、空と雲等々 自然の風景なんだ。
ぼーーーーーっとしながら空を見たり、流れる雲の形を楽しんだり、屋根の上の鳥の動きを見たり、葉っぱの間の蜘蛛の種類を想像したり…
まさしく、まーさーしーくぅー、無限大に頭と心の中が緩みまくるんだよ。
そうやって客観的に自然に触れて、いい程経った後に、また自分の文章を読み返す。
そうすると、詰まっていたものが再び動きはじめる、って感じ。

日々、生きているだけで、

人って膨大な数の色んな思いが、カラダの中で常に巡ってると思う。
それを独り言や、会話の言葉として発声するか、文章として記すか。
はたまた頭の中で思うだけで終わるか、だけのことで、
全ての思いは、記憶の中のどこかに隠されているのではないか?と、
自分は思っている。
なので、
「あの時 確かこんなこと思って、おおお〜!と なったんだけどなぁ。」
系の事案が多い。
相当強烈に思いが動いたことは.、ちゃんと覚えているが、そうでないことは忘れ去ってしまう。
最近、これが勿体無いと思うようになってきた。
忘れてしまうような小さな思いの中に、実は自分の正体が隠されていたりするのだ。これについては、いつか書くかも知れないし、書かないかも知れない 笑

かと言って、

小さな思いを、何かに書き留めておくことはしない。
過去は書くことをリスト化していたが、今はやらない。
リストの事項が増えれば増えるほど、
「ほーれほれ、こんだけ書くモノ溜まっとりまっせぇ〜 。」と、
リストに ニヤつかれている気がして、物おじしてしまう 笑
それにリストがあることによって、常々 妙に意識してしまい、
その時あった思いに 色付けしてしまいそうだから。
そうした方が、もしかしたら、誰かが読むには面白い文章になるかも知れないが、もう、そんなことはしたくない。
その理由については、前に書いた 湧くまで待つ。に記してある。

だから、

ぼんやりなキッカケさえあればいい。
今、感じていること、前感じたこと。ぼんやりを ぼんやりと文章化する。
思いの記憶の中の、どこかに隠されている引き出しが開いたら、淡々と書き始める。
その鍵は いつも自然の中にある。
いつか、丸っとの剥き出しの自然の中で、Wi-Fi や電源を全く気にせず、
思うことを ぼんやりと たぐりながら ”創る” が出来るといいなぁ。

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