不眠、社会化されない病のエセー|伏見瞬

注目の書き手にいまの関心事を綴っていただく「マイ・スクラップブック」。第4回は、批評家・伏見瞬さんにご寄稿いただきました。
著者が長らく苦しまされてきた不眠症について。眠れないことの恐怖とは。
「不眠は現代において反=社会的な病だ――」

「第七に睡眠」

 どんな運動体でも共同体でも組織体でも、眠りをおろそかにするものはすべて信用に値しない。人が共に生きるための前提条件、つまり孤独の根拠を無視しているからだ。
 森元斎は無政府主義を平易に解説せんとした『アナキズム入門』(ちくま新書,2017)において、19世紀ロシアの革命徒ミハイル・バクーニンの以下の言葉を引いている。スイス・ジュラ地方でインターナショナル会員と議論した際に、バクーニンが人間の幸福について語ったものだという。

「第一に自由のために闘い死ぬこと、第二に愛と友情、第三に科学と技術、第四に喫煙、第五に飲酒、第六に食事、第七に睡眠」

 森はバクーニンを紹介する章の最後にもう一度同じ言葉を引用しており、この言葉に格別の愛着を抱いているようだ。バクーニンの思想、紹介者である森の思想、あるいはアナキズム全般の思想の是非を問うことはここでの問題ではない。そうではなく、問われるべきは上記の言葉に現れる身体感覚についてだ。バクーニンが行ったとされる順位付けは、身体から遠いものほど余計に価値を置いているがゆえに信ずるに足りない。誰もが知るように、自由や愛や友情といったあいまいな現象は科学と技術抜きには成り立たないし、科学技術は喫煙と飲酒の(あるいは音楽と性と知の)陶酔がなければ無意味であり、陶酔は食事なしの空腹では不首尾に終わる。三万歩譲って、愛や自由が科学よりも重要だと考えても科学が陶酔より大事だと思っても別に構わない。それらはほぼ同等に抽象的だ。だがしかし、睡眠を最下位に置く判断に関しては、どう捻っても肯定のしようがない。自由も愛も技術も陶酔も、眠りがなければ何の意味もない。

 眠りは極めて個人的な内的体験である。どこで寝ていようとも、誰が隣にいようとも、目を閉じて意識を失えばその時間を共有する存在はどこにもいない。つまるところ眠りは孤独である。
 だが、眠りは孤独ではない。孤独感を知るための必要条件である社会的意識自体が、そこでは消失しているからだ。もちろん、夢の中で学校や会社に出くわすこともあるだろう。だが社会性が芽生えるのは、夢の記憶を起床後に自らの社会体験へと位置づけた後に過ぎない。

うつと社会

 ジャーナリズムと学校制度の成立以来、人々は同じ問題を共有するよう方向づけられてきたが、本当に共有できる問題などそこにありはしない。経済格差であろうと性暴力であろうと国際政治であろうと、制度内に生活するすべての人間を捉える問題は存在しない。 

 平成という時代を「うつ」の時代と捉えたのは、自身が双極性障害Ⅱ型を患い、大学教員を辞めながらも文筆活動を続ける與那覇潤である。『平成史――昨日の世界のすべて』『知性は死なない――平成の鬱をこえて』といった単著、あるいは斎藤環との共著『心を病んだらいけないの?――うつ病社会の処方箋』などで與那覇は、自身の病と時代の気配を重ねる。かつての知性の蓄積を忘却し、この瞬間への反応だけがはびこる歴史なき時代。言語の力を無視する反知性主義の態度は知の世界であるはずの大学も支配し、歴史学者は怒りと無力感の中であらゆる能力を失っていく(うつ病は「意欲」の低下ではなく「能力」の低下の病だと與那覇は強調している)。無力感の中でのたうちまわる個人的な体験は、「平成」という時代の歴史体験に紐づけられる。
 個人の病と社会の病が連動しているとするこの姿勢は、『資本主義リアリズム』のマーク・フィッシャーのそれと重なる。冷静終結後の世界を、可能性を失った「喪」の時代として生きてきた神経感覚も、両者は共有している。君の病は、君のせいじゃない。社会のせいだ。そう考えれば楽になれるだろ?だから自分を責めちゃいけない。悪いのは資本主義からの出口が見当たらないこの世界、可能性を失ったこの世界なんだ。そう読者に語りかけてきたフィッシャーは、2017年に自らの手で命を絶った。
 あまりに当然ながら、今生きているすべての人がうつ病なわけではない。與那覇とフィッシャーの出身地である日本国と英国に限ったとしても、うつ病は万人の病ではない。個人の病を、資本主義と反知性主義に覆われた社会の病理と一致させることにどこまでの妥当性があるだろうか。もちろん、万人に当てはまらなくても、流行病にある種の象徴性を持たせることは可能だ。しかし、精神科医の先崎章がうつ病になった棋士の弟に向けて「いまだに心の病気といわれている。うつ病は完全に脳の病気なのに」と語った内容が正しいとすれば[1]、うつの心理状態を社会と重ねる論の拡散は、当の病に対する偏見を広める結果に繋がるのではないか。「社会状態に端を発する病だ」という認識は、うつ病が「心の病気」であると断定するに等しいからだ。そもそも私たちを苦しめているのは、本当に資本主義や反知性主義だろうか?


[1] 先崎学『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』文春文庫, 2017を参照

不眠と恐怖

 不眠に苛まれた夜の深い時間のことを思い出す。中途覚醒に紐づく不眠症状を意識しだしたのはいつのころだったか。高校生の頃から少しずつ眠れない日が増え、20代中盤に明確に自らの不眠を意識した。眠れない真夜中の部屋は息苦しい。手足に鈍い痛みがあり、胃のあたりに違和感が渦巻く。風呂に湯を溜めて体を温めたり、自慰によって余計な欲求を取り除いたり、睡眠導入になるようなアンビエント・ミュージックを流したりするが、眠れない時は何をしても眠れない。時間を無駄にしたくないと思えば思うほど、時間が無駄になっていく。睡眠時間が少なければ、次の日の仕事がまともにできないし、友人とも大らかに話せない。落ち度はないのに苦しむことになる。不眠に陥ると、やり場のない怒りが暴れ出す。自分は悪くない、他人も悪くない、誰も悪くない。だが、今ここで苦しんでいる。なにも解消できないまま。ムカつく。腹が立つ。どこにも捌け口は用意されていない。
 といっても、毎日眠れない夜を過ごしていたわけじゃない。中途覚醒せずに朝まで眠れる日もある。数えたわけではないけど、5日に2日くらいの割合でよく眠れた。けれども、しんどいのは眠れない夜だけではなかった。また夜中に目覚めるかもしれない。眠れないかもしれない。そうした思いが頭をよぎり続ける。間欠的な恐怖を意識しながら生きている。

 時々、寝苦しさを紛らわせるために住んでいる集合住宅の外に出た。誰もが寝静まり、集合住宅の部屋の明かりは消え失せ、外に出ている人間はどこにも見当たらない。体は怠く、頭は重く、心は焦っている。明日の寝不足を考えて不安になる。今の苦痛を共有している人間は誰もいないと思った。それは、時代と併走することの絶対ない、ひとりぼっちの病だった。

不眠と反=社会

 不眠は現代において反=社会的な病だ。不眠症の自覚のある人間がいくらいるとしても、不眠は反社会的なものとして社会から位置づけられている。不眠の原因が根本的に社会と関係を持たないからだ。「うつ」は、(議論が妥当かどうかは一旦おいておいて)與那覇やフィッシャーの論のように社会と紐づけられる。うつ病の症状の中には不眠も含まれるから、そういう意味では不眠も社会と関係を持たないわけではないだろう。しかし、ここで思考の対象としたいのは、精神的な不調や社会的な病理とは関係ない、ただただ発生する不眠の現象だ。肉体に痛みを抱えているわけでもなく、人間関係に苦悩を抱いているわけでもない。原因となる心理的要素を欠いた状態での不眠状態に、筆者は長らく怯えてきた。それは、社会化された原因を欠いているがゆえに、第三者に共有されえない不眠だ。原因が見当たらないから、社会からの診断としては自己責任で処理するしかない病だ。睡眠良好の人間は、不眠を異常だとみなす。しかし、不眠症の人間にとっては、迅速に健康に眠れる状態こそが異常だ。

 心理的・社会的原因もなく、ただただ人は眠れなくなる。そこで、人は自分の体が自分のものではないことに気づく。眠りという現象において、人は主体的になれない。眠れるか眠れないかを決めるのは自分自身ではない。自分で決められたらどんなに楽なことか。ボタンを押せばすぐに眠れる体になれたらよかったのにと何度想像したことか。もちろん、足を暖めるとかストレッチを行うとかの眠りを誘う手段は本やネットの中で紹介されているし、それが効果を持たないわけではない。だが、究極的には眠りをもたらすのは主体意識ではない。主体性が消えない限り眠りは訪れない。不眠においては、社会性の枷が外れて、主体意識が過剰に回転しだす。主体性の暴走。そこでは、資本主義も反知性主義も意味をなさない。社会現象から切り離された荒野の気配が、命の危険のないいつもの住居の壁から滲みだす。人類が安心して眠るために作り上げたベッドルームという様式の中で、ただただ人は眠れなくなる。役立たずの過剰な主体意識と、向き合うハメになる。 

 社会化できない病であるが故に、不眠症患者の数がどんなに増えても、不眠をうつ病や資本主義のように「問題」にできない。自己責任の領分として処理することしかできない。しかし、人が決定的な裸形の体験をするのは不眠の時間においてである。誰かの役に立つことはもちろん、自分のための努力さえできない、有無を言わさぬ無為の時空間が訪れる。不快な気怠さと苦痛に近い不自由のへばりついた無為の時空間。眠りにとっての孤独はすべてを捨て去った孤独だが、不眠の孤独は何も捨てられない孤独だ。何も失えないまま、社会から打ち捨てられる。社会が包摂し得ない時間を、不眠状態の人間は知っている。

社会の基盤、孤独の基盤

 社会の外側に、筆者は多くを期待していない。マーク・フィッシャーに「資本主義の終わりを想像するのは難しい」と言われても、そもそも何かの終わりに期待を抱けない。「終わり」が来てほしいのは、眠れない夜の終わりだけだ。不眠のうちに社会から切り離されて存在する経験があれば、社会の外側に存在することがどれほど過酷であるかわかる。社会の外側に、共同体の夢を見ることはできない。不眠者にとって社会の外側は、他者と共有するという機会をあらかじめ奪われた、自分が何の役にも立たない状態を前提とする時空間だからだ。不眠的な不毛の時空間。そこに、共同性が安堵する隙間はない。

 いま筆者は、極めて個人的に、「社会の外側」の体験について語っている。それは、大勢が経験したことあるに違いない、ごくありふれた地獄でしかない。だが、どんなに大勢が経験していても、不眠は個人的な体験にとどまる。不眠は社会化されない。社会の中で生活を営みつつも、個人的な体験を社会に奪われないために、不眠について考えていきたい。眠れなくても眠れても、眠り以上に尊ぶべきものはない。睡眠と不眠だけが、社会の基盤となり、孤独の基盤となるからだ。私たちが息づく場所は、睡眠の安堵と不眠の苛烈の間にしか存在しない。

伏見瞬(ふしみ・しゅん)
批評家/ライター。 音と言葉に関わる文化全般に関する執筆を行いながら、 旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を務める。 2021年12月に初の単著となる『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』をイーストプレスより刊行。