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対話7-B 心の穴の、その先へ(石田月美)

二村ヒトシさま

この往復書簡も幕を閉じます。あっという間のようで密度の濃い時間を、この連載の中で過ごさせて頂きました。二村さん、いつも生意気な私の書簡に丁寧にご返答くださり、本当にありがとうございます。

この連載を始めてつくづく分かったことは、否定するのは簡単だが、肯定しつつその先を考えるのはいかに大変かということです。

前半戦では、私から心の穴への問題提起をさせて頂きました。そして後半戦では、二村ヒトシの新しい恋愛論を考えるお手伝いをさせてもらったつもりです。振り返れば、問題提起というのは実に容易なものです。どんな優れた論にも穴はあります。そして人は誰しも考え方や価値観が違います。ですから、それを示せば良いだけでした。

けれども、そこから考え方も価値観も違う人間同士が、同じ方向を向いて一つのものを作り上げようとするのは、予想以上に困難なものでした。その点、私の力及ばず、ご迷惑をおかけしたことも多々あると思います。

そして、これは恋愛においても言えるのかもしれません。相手の欠点というのはいとも簡単に見つかります。しかし、相手の欠点を踏まえた上で、それでも相手を肯定し、より良い関係を築いていく。「付き合う」と表現されるような恋愛関係が、そのようなものを求められているとしたら、一体どれほどの人が相手と付き合えているのでしょう。そんなことを考えさせられる連載でした。

恋愛が教えてくれるもの

恋愛をしていて一番驚くのは、自分の中の他者に出会うことです。特にずっと隠しておきたいような醜い自分を突き付けられます。嫉妬に喘ぐ自分。差別的な考えで頭がいっぱいになる自分。自分さえ良ければと思う自分。恋愛は、見たくもない自分が剥き出しになる体験の連続です。

しかし私は、そのような醜い自分を、滑稽な自分を、恋愛は教えてくれるから面白いのだと思っています。そのような自分を知っているからこそ、相手を慈しもうと努力します。もしも私がすごく良い人であるなら、私は恋愛相手に対する想像力を一切働かせなくて済むでしょう。そうでないからこそ、相手をよく見て、配慮と勇気を持って関係を紡ごうとするのです。

これからの恋愛

私には四歳と六歳の子どもがいます。子ども達のことを私は心から愛しています。そして私は日々、子ども達の心に穴を空け続けていることを実感します。親と子どもは決して対等ではありません。圧倒的な権力格差の中で、私は愛という名の下に、子ども達を支配しているのだと思います。「良かれと思って」行う親の権力的な振る舞いの全ては、きっと子どもの心に穴を空けるのでしょう。

私自身、子どもに「あんたに心の穴を空けられた」と言われる覚悟は出来ています。しかし、子ども達はそうやって自己責任から降りた後、どうしたら良いのか。自分への罪悪感のベクトルを親に向け変えただけで、被害者という位置に留まり続けることにはならないのか。そう考えると、また少し胸が痛みます。親と子以外の人間関係によって、何かしらの変化が生じるのを願うばかりです。

子ども達はまさに、これから恋愛をします。その時、子ども達が教えを請うのは親ではありません。友だちであり、仲間であり、そしてフラッと入った本屋で見つけた一冊の本でしょう。

二村さん、その時の子ども達にどうか教えてやってください。恋愛というものが、いかに滑稽で、そして何より魅力的なものか。人を愛するという経験が、そのような相手と出会えることが、どれほど奇跡的なことか。

自分の心の穴を知り、相手を見つめた、その先へ。どうか、これからの二村さんのご著書が導いてくださることを願っています。

最後に――恋愛と恋愛論

この往復書簡は、私が二村さんの恋愛論に感じた「痛み」と「違和感」から出発しました。痛みについては既に取り上げ、二村さんにも同意していただけました。最後に、やり取りを通してようやく自分でもわかった「違和感」の正体についてお話しさせてください。

まず、私は「恋愛とは何のためにするのだろう」という疑問を切実に抱いたことがありません。私にとって恋愛は、気付けば既にしてしまっているものであり、恋愛についての悩みとはもっぱら相手との具体的な関係によって生じるものでした。それには当然、相手と関係を持ちたいけれど持てないといったような悩みも含まれます。「好きにならなきゃよかった」と思うことはあっても、「何のために恋をしているのだろう」とは思いもしませんでした。恋をしていない時間も、「モテたい」と願い、モテようと努力したりするだけです。つまり私にとって恋愛は、何のためにというような抽象的な疑問よりも、差し迫った具体的な問題として現れます

そして、そのような差し迫った恋愛という問題に直面すると、否応なしに自分は変わります。急に身綺麗にしたり、デートの時間を確保するために仕事を頑張ったりというポジティブな変化もあれば、メールの返信を気にし過ぎたり、嫉妬に喘いだりというネガティブな変化もあります。自分の中にこんな自分がいたのかと驚くことしきりです。更に、相手とうまくいっているときは世界中が自分を祝福しているように感じ、うまくいかない時には世界中から拒絶されているような感覚にも陥ります。世界の捉え方さえ変化してしまうほど、恋愛は私を勝手に変えます。

私はたくさんの恋愛をしてきましたが、それは「自分を知る」ためでも「自分が変わる」ためでもありません。それらは副次的に起こる事であり、ただどうしようもなく相手を好きになってしまう、それだけなのです。
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そんな私でも「恋愛論」と呼ばれるような書籍をいくつか読んだことがあります。私がそれらの書籍を求めたのは、愛する技術について学びたかったからです。

愛という名のもとに、人はありとあらゆる愚かな振る舞いをします。愚かなだけであればいくらでもしたら良いのですが、時としてその振る舞いは相手を傷つけます。私にとって恋愛は、そんな自分の加害性を十分過ぎるほど教えてくれました。そのような経験を踏まえ、私は「愛しているから」というのは決して免罪符にならない。愛することには技術が要るのだと考えるようになったのです。

自分も相手も

私が二村さんの恋愛論に違和感を持ったのは、恋愛というものの捉え方それ自体が違ったからだと思います。私にとって恋愛は具体的で差し迫った問題であり、自分の変化に自分でも戸惑うほどの体験です。そして何より知りたいのは、「どうやったら相手を大切にできるのか」なのです。

どちらが良い悪いというのではありません。二村さんと私の考え方が、ただ単に違う。それだけです。また、恋愛について考える際に、二村さんが「まず自分」から出発するのに対し、私は「まず相手」から出発するという違いもあるのだと思います。両者とも幸せな恋愛をし、相手を大切にすることを望んでいます。しかし、二村さんが心を掘り下げるのに対して、私が具体的な行動を重視するのは、そのような出発点の違いからかもしれません。

二村さんから心の穴について、様々なご説明を頂きました。心の穴という概念はwhyを考える上で、とても役立つと思います。「自分はなぜ(why)このような恋愛をしてしまうのか」。「自分はなぜ(why)こう考えてしまうのか」。これに関しては、二村さんの今までのご著書やこの往復書簡で十分に伝わったと思います。

それを踏まえて私からは、howで考えるという提案をさせてください。恋愛で悩んだ時に、「じゃあ、どうする(how)」も考えてみて頂きたいのです。そして、そのhowには大小様々なものがあると想像してみてください。大きなhowには「別れる」「付き合い続ける」などがあるでしょう。中くらいのhowに「話し合う」「距離を置く」などがあるかもしれません。小さなhowには、それこそケースバイケースの「小まめに連絡する」又は「連絡を控える」とか、「家事の分担」などもあるかもしれません。そのような個別具体的な「じゃあ、どうする(how)」を相手と一緒に考えてみて頂きたいのです。

恋愛はプロセスです。今時、結婚がゴールだと考える人は少ないでしょう。つまり、我々は恋愛というプロセスを相手と共に歩んでいるのだと思います。ゴールがないというのは、人を不安にさせます。正解が見えないからです。しかし、だからこそ、「今ここ」の相手をよく見て、どうやったら大切に出来るのかを考えていくしかないのだと思います。

二村さん、精神病院の講演会で初めてお目にかかってから10年以上の時が経ちました。あれから私は結婚をし、子どもを産み育ててきました。いわゆる恋愛からは離れてしまったように見えて、誰かを愛するということを根本的に突きつけられるような日々を送っています。そんな私にこの往復書簡は、改めて「恋愛とは何か」を考えさせてもらえる得難い時間となりました。この機会を与えてくださって、心から感謝しています。

そして何より、この連載をお読みになってくださった読者の皆さん、本当にありがとうございます。誰かを愛するというのは貴重な体験です。そんな奇跡のような出来事に巡り会えたのなら、どうか目の前の相手を大切にしてください。この往復書簡が少しでも、皆さんの恋愛に役立つものになれば幸いです。

石田月美