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往復書簡 第8便「既知ベース・未知ベース/仲良くすること・親しくすること」(返信:ウチダ)

このnoteでは、神戸女学院大学 内田ゼミ卒業生・タムラが、恩師・内田樹先生へ人生相談する様子を公開しております。
内田先生の学術的武道的な専門領域から遠く離れた、ごくごく普通の、市井のタムラへ、“教師としての仕事の1つ”と内田先生が位置付けていらっしゃる“卒後教育”をリアルタイムで更新中。
「ウチダせんせい、あの…」とやってくるタムラに、冬は「そこ寒いから、このおこたにでもに入って入って。」と、夏は「暑かったでしょ。とりあえず、麦茶でも。」と、内田先生がおっしゃる姿が目に浮かぶ、世界で(たぶん)いちばんほっこりする、往復書簡版『人生相談室』。

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・相談する人:タムラショウコ(神戸女学院大学 2007年度内田ゼミ卒業生)
・相談に乗る人:内田樹先生(凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授、仏文学者、思想家、武道家)

お茶でものみながら、ほっこりと。


こんにちは。内田樹です。
今日は「敬意」についてのお訊ねですね。

僕が敬意ということがたいせつだと思うようになったのは、子育てをしている時です。子どもに対してもちろん僕は深い愛情を抱いていたわけですけれども、なんとなく先方はそれが「父ちゃん、ちょっと煩わしい」と感じているようであるということに気がつきました。

深い愛情があると親は何をするかというと、とりあえず子どもを「理解しようとする」んですね。愛と共感の上に家族は築かれるべきだと思っていると、どうしても理解しようとする。
でも、田村さんもわかると思うけれど、親は子どものことを決して理解できません。絶対に無理です。いくらがんばっても、子どもの中には親の理解も共感も絶する「ミステリーゾーン」があります。

でも、愛と共感をベースにして家族を形成しようとすると、子どもの中に理解を拒むものがあると、それは「よくないこと」にカウントされてしまう。子どもの心のすみずみまでが可視化されるべきであると親は考えてしまう。

なんと。そんなことできるはずもないし、望むべきでもないのに。

でも、愛がベースにあると人間はつい「理解したく」なってしまうんですよね。「理解したいなあ」と遠い目をして願っているくらいなら無害なんですけれど、理解できないことを不満に感じたり、ストレスに感じたりするようになると、あまりよろしくない。愛情が限度を超えて嵩じると、「私はあなたをこれだけ愛しているのに、どうしてあなたは心を開いてくれないんだ」というような無体なことを言い出すからです。これはよろしくありません。

「心を開いてない」なんてことはないんです。ちゃんと「心を開いて」いるんです。でも、それがわからないんです。
自分に見えない思念や感情は「見えない」んです。そこにあっても「見えない」。だから、「隠している」と思う。
そして「隠さないで、全部話してくれよ」というようなことを言い出す。
いや、隠してなんかいないんです。とっくの昔に、会ったその日から、手札はおおかた見せているんです。「うまく言葉にできないこと」は「うまく言葉にできないこと」というタグをつけてちゃんとテーブルの上に並べてあるんです。「恥ずかしくて言えないこと」については「恥ずかしくて言えないこと(だから開けないでね)」というタグをつけた「箱」をテーブルの上に置いてあるんです。それなのに「なぜ心を開いてくれないんだ」とか言われても困ります。これ以上どうしろって言うんだよ。
これが愛と共感の上に人間関係を築こうとする人間が陥るピットフォールです。

わからないことはわからない。しかたがないんです。「わからないこと」を抱えたまま、楽しく暮らしてゆけばよい。そんなこと別に難しくないんです。僕と平川君の関係がそうですから。平川君は僕のことをよく理解していないし、僕も平川君のことがよくわからない。どうして詩なんか書くのか、どうしてあんなによく怪我や病気をするのか、さっぱりわかりません。当然、平川君だって、「どうして内田はあんなに仕事をするのか」「どうして内田はあんなにくだらない映画を飽きずに見るのか」「どうして内田は師弟関係というような面倒なものが好きなのか」とか思っているはずです。お互いさまです。

でも、相手の中に、こちらの理解も共感も絶した「ミステリーゾーン」が黒々と広がっていることは、僕たちが仲良く、面白く暮らしてゆく上ではぜんぜん支障になりませんでした。
むしろ、「そこ」にはあまり無遠慮に踏み込まないようにという配慮が、僕たちの関係をお気楽なものにしているのだと思います。なにしろ60年以上にわたって、僕たちは一度も喧嘩したことがないんですから。一度もないんですよ。政治闘争やったり、同人誌作ったり、一緒にビジネスやったりしてきたのに、一度も意見の食い違いということを経験したことがない。だって、「君の意見にオレは反対だね」と言えるためには、「君の意見」の拠って来るところが「わかる」ということが前提になるけれど、それが「わからない」んです。「君の意見」がどこで生まれて、どういうプロセスを経由して、こんなかたちになったのか、見当もつかない。それじゃあ反対しようがありません。「なるほど、それが君の意見なのね。なるほどね。じゃ、まあ好きにしたらどうでしょう」以外にリアクションのしようがない。

これを哲学的に「他者の他者性」と呼んでもいいです。
言葉は大仰ですが、要するに「他の人の中にあるよくわからないところ」です。それはどんな人にも必ずある。あって当然なんです。
だから、相手がよくわからないということにストレスに感じる必要はないんです。
それは相手が「人間だから」という理由でストレスを感じるのと同じくらい無意味なことです。

よろしいですか。他者のうちなる「ミステリーゾーン」は「愛さえあれば」わかるというものじゃありません。「想像力さえあれば」でも、「高度の知性さえあれば」でも、ダメです。
他人が考え感じていることは努力さえすれば全部わかるはずだという命題そのものが間違っている。

そして、もっとややこしいことに、「ミステリーゾーン」は、対面する人ごとに違うということです。
僕にとって「不可解」と思えることが、別の人からは「丸わかり」ということがある。そして、その逆もある。僕から見て、「この人って、こう考えているよね。もう哀しいほど下心が丸見えだぜ」と思っている人の考えが「ぜんぜんわからない」という人がいるし、僕が「この人の考えていること、さっぱりわからない」と思っている「謎の人」について「いや~、あれほどわかりやすい人いませんよ」と言う人がいる。そういうものなんです。
いずれにしても、「わからないところ」は誰についても黒々と深い沼のように広がっているのです。
だから、そんなことはあまり気にしてもしかたがない。それは眼球の盲点と同じ構造的な無知なんです。「それ以外のものを見るためには、何かを見落とさなければならない。」

敬意の話をしているところでした。

僕が娘に対して「愛情より敬意を示そう」と思ったのは、そういう理由からです。100%理解することも100%共感することもできない相手に対しても、必要な敬意を示すことはできる。
敬意は伝達力が強いからです。

よく引きますけれど、「鬼神は敬してこれを遠ざく。知と謂うべし」という言葉が『論語』にあります。
敬意についてこれほどカラフルな命題はありません。なにしろ敬意には鬼神さえ遠ざけるだけの物理的な力があると言うんですから。
「鬼神」といったらもう100%理解不能共感不能です。まったくコミュニケーション不能の相手です。でも、そんな相手でも敬意を以てすればそれを遠ざけることができる。
つまり、敬意だけはどんなことがあっても伝わるということです。相手がいかなる他者であっても、「私はあなたを軽々しく理解したり、共感したりできると思ってはいません」というメッセージだけは過不足なく伝わる。つまり、「敬意」は最強のコミュニケーション・ツールだということです。

愛は伝わらないことがあります。人から深く愛されていても、それに気がつかないということはあります。逆に、人を愛して、じっと燃えるような眼でみつめていても、相手がまるっきり気づかないということもあります。でも、人から敬意を示されて、それに気がつかないということはありません。敬意は間違いなく相手に伝わります。

そう気が付いてからは「敬意を以て人に接する」方が「愛を以て人に接する」よりもコミュニケーションのあり方としては効率がいいと思うようになりました。
敬意をベースにしたコミュニケーションの方が、愛と共感ベースのコミュニケーションよりも、双方の「思っていること」が伝わる確率が高い。だったら、そうしよう。というふうにさらっと切り替えられるあたりが僕の「非人情」なところですけれども、その話はまたいずれ。

ともかく、話を戻しますけれど、そういうわけである時期から娘とのコミュニケーションを「愛と共感」ベースから「敬意」ベースにシフトすることにしたのです。

でも、よく考えたら、「目の前にいる人のことがよくわからないまま仲良くする」というのは11歳のときに平川君と友だちになってから、僕はずっとやっていたことなのでした。
「目の前にいる人のことがよくわからない」ということがストレスにならないというのは僕が共感性を欠如したかなり歪んだ人間だということに起因することかも知れませんので、一般性を要求すべきではないのかも知れませんけれども、でも、そのおかげで僕は「学ぶ」ということについてはきわめて開放的な人間になることができました。
だって、「学ぶ」というのは、目の前にいる師の偉大さが「弟子ごときの理解や共感がとても及ばない」という非対称的な関係をするっと受け入れられるということから始まるわけですからね。「よく知らない人間のことを『先生』なんて軽々しくは呼べない」というのはもっともなんですけれども、そういう人は「学ぶ」ということにはあまり向いていないと思います。
僕はわりとあっさり自分の心を開いて人を受け入れることができます。それはたぶん他人と共感できないという欠点の裏返しなのでしょうけれど、誰でも「長所と欠点は裏表」ですからね。その辺は差し引き勘定でちょっとでもプラスならいいんじゃないでしょうか。

敬意というのは僕のような人間が選択しがちなコミュニケーション戦略なのかも知れません。
だから、誰でも「そうすればいいよ」とは薦められないんですけれど、「お時間があればご検討ください」くらいの推し加減でリコメンドさせて頂くことにします。

今日は以上です。話が中途半端ですみませんね。


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