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「勇気の出しどころ」と「エスパー」

「勇気がない」っていう言葉を聞くと、最近、「そんなことないんじゃないかな」って思うようになりました。

「勇気がない」んじゃなくて、「勇気を出す場所がない」「勇気の出しどころがない」のではないかな、と。
「勇気はある」んだけど、「勇気を発揮する場所」が「ない」と感じているのではないかな、と。
そして、「勇気はある」のに、次第に「勇気がないんだ、わたしって…」とすり替わっているように思うのです。

わたしがイメージする「勇気」というのは、例えば、「こんなことしてみたい」「こっちがいいな」とふわっと思った、そして、とてもささやかな(と思われるような)ことについて、「こんなことがしてみたい」「こっちがいいな」と言い出せないこと。

職場でランチ会用のお弁当のケータリングを発注しようとしていて、「こっちのほうがいいな」と思ったけど、なんとなく言い出せなかった、とか。
会社の先輩が、お菓子を配りに来てくれて、ほんとうはチョコレートが食べたかったけど、残量の多いクッキーのほうを選んでしまう、とか。

ここで頭の中をよぎるのは、「あとで何か言われたら、嫌だしな…」「相手にどう思われるかな」といった気持ち、ですよね。

でも、よーくよーく現実を見てみると、まだ誰も何も言ってきていないし、相手の思っていることは相手にしかわからない。
急に、「エスパー」みたいに、振舞ってしまうんですよね、ほんとうに急に。

「自分に正直でいる」ということは、他の誰でもなく、「自分にしかできないこと」。
だけど、ときどき急に、そのことをパッと忘れてしまう。
そして、いきなり「エスパー」になって、「正直にいられない理由」を誰かに託す。
そうすることで、なんだか自分の気力がすり減っていく。
こうして書いてみると、なんか「変なこと」してるなぁって思います(自戒の意味を込めて)。

「相手に嫌われたくないな」という気持ちがあるのも正直なところ。
ここで言いたいのは、「“相手に嫌われたくない”って思わないようにする」ということではなくて、「相手に嫌われたくはないけれど(できれば仲良くいたいけど)、自分のことを好むか嫌うかは、こっちがどうこうできるもんじゃないもんね…(すすんで嫌われたいわけじゃないけれどね、決して)」というような、気持ちのちょっとした複雑さを、自分の中に抱えていることが、「エスパー」へ変身して相手の気持ちに(幻想であれ)踏み込むことを慎み、「自分な正直な気持ち」にちょっとずつ触れていくことになるのではないかな、ということなんです。

目には見えない、気持ちのマナー、みたいな。

そうして「自分の正直な気持ち(の複雑さ)」の手触りが、今すでに胸の内にある「勇気」を差し出すときに、できるだけやさしくていねいに、正直な気持ちとして届けるときの下支えになるように思っています。

まわりの「正直な大人」の方々の姿、一挙手一投足を思い返すと、そのような「あたたかさ」があるんです。

「正直」とか「勇気」というのは、誰かを切り裂くものではなく、やさしくあたたかなもの。
そして、ていねいにていねいに、自分の気持ちの複雑さを気づかせてくれるものでもあるのかもしれません。

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