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『シン・ゴジラ』とシンクロするコロナ禍、そして『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に期待すること。

 明けましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 さて、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の更なる公開延期の機運が高まる中、僕の今年の一本目の映画は『シン・ゴジラ』です。

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 逆張りが過ぎると思われるかも知れないけど、今本当に見るべき、また、見て楽しい映画だと思うので、改めて感想を書いていこうと思います。

 そして本作が新劇場版エヴァンゲリオンシリーズと、その新作でありファイナル(予定)の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と決して無関係でないのだ、というところまで行けたらいいなと思います。

 尚、スマホで書いてると何故か「〜である」調になり、パソコンで書くと「ですます」調になる僕の文体病が出ているので、この記事はいきなり文体が変わることをお許しください。

『シン・ゴジラ』の予言性とコロナ禍

 さて、この『シン・ゴジラ』は3.11を下敷きにした批評性の高い作品として知られているが、確かに災害としてのゴジラが東京湾で出現、上陸する流れは地震発生から津波の到達、そして政治家が「ありえない」と退けた超巨大生物の出現と福島原発のメルトダウン発生の流れも酷似しており、本作が3.11を模している事は明らかである。

 が、この作品がもつ批評性の高さ、その射程の長さは再評価されるべきだと思う。

 そのポテンシャルは、本作が用意したシナリオが3.11という過去のケースを超えて、現在進行中のコロナウィルスによるパンデミック、つまり公開時点では未来に当たる現在の混乱も言い当ててしまっているその恐るべき確度・予言性にある。

 例えば、現在のコロナ禍もSNSで武漢の動画拡散から始まり、ウイルスが徐々に日本に上陸し、パンデミックという非現実、SFのような話が現実として猛威をふるいはじめる過程は『シン・ゴジラ』における海ほたるでのゴジラ登場からその上陸に至るまでの過程とかなりシンクロしている。

 また、作中ではゴジラは第二形態(第一形態は不明)、第三形態、第四形態と進化しており、その度に災害の質も変化していく。

 当初は想定外の自然災害として現れたゴジラも、政府の日和見対応によって被害が拡大し、どんどん想定内であったはずの被害が増えて行くのである。

 このゴジラの形態変化とは、ゴジラの災害としての姿、つまり人智を超えた天災という虚構から人災という現実へのメタモルフォーゼに他ならない。

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 そしてコロナの変異種、変異種でなくてもいいがその脅威が広がる現在、我が国の政治機構は新たな危機、しかし予想できる範囲の危機に対して十分な対応を行えているかどうかを考えると、このメタモルフォーゼは決して他人事ではない。

 が、本稿では別に作品にかこつけた政治批判をぶつつもりはない。

 監督の庵野秀明が描いた政治批判としての本作の確度の高さは素晴らしいし、一方で震災から10年、作品公開から5年が経とうとする今もその確度が保たれている事は強く反省すべき事だとしても、この作品の白眉はあくまで別にあると思うからだ。

 それは超巨大生物という虚構が現実となって日常を破壊していく矛盾に満ちたリアリティと、その現実を更に虚構をもってして破壊しようとする庵野秀明の企図である。

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 (※むしろ、庵野秀明はこの最後の破壊をやりたかったが為に精密な現実を描いたのであって、この現実とはジオラマのようなものかも知れない。しかし、庵野監督ももういい大人で(たぶん)、本作を見ていてもジオラマ作りのためのリアリズムは流石に脱却していると思うので。そこは見て見ぬ振りをして話を進めることにする)

虚構の強さを問い直す「スクラップアンドビルド」、そして『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

  さて、本作が虚構が現実を破壊していく矛盾したリアリティに挑戦した作品であり、その批判的射程が正確かつ想像以上に長かった事はわかった。

 が、問題はその先である。

 我々は、現実となってしまった虚構とどのように対峙すべきなのだろうか。

 作中、日本政府は米軍を始めとする国連軍によるゴジラ(と東京)に対する核攻撃案を呑んでいるが、それが最善手なのか悪手なのか、最早その判断は"現実的"な視座では持て余す様子が描かれている。

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 こうした現実の行き詰まりに庵野秀明が投じるのが「ヤシオリ作戦」という名の超弩級の虚構である。

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 無人在来線爆弾、丸ビルの爆破…ああ!やっぱりこれだよこれ!と叫びたくなるほどの快活な破壊は絶対に"現実"には行われない妄想、虚構の類でしかない。

 つまり、「ヤシオリ作戦」の一幕は庵野秀明はまだ虚構の可能性を信じているのだ、というメッセージが強く強く感じられる本作における最重要シーンなのだ。

 そしてこの作戦は成功し、ゴジラは"冷温停止"する。

 (ちなみにこのシーン、どう考えてもオタク集団の巨災対然り、ヤシオリ作戦が始まると同時にかかる「宇宙大戦争」のbgmしかり、特撮特撮した画然り、これはもしかしてDAICON FILMの話か!?庵野が閉塞したエヴァに対して、青春時代に作り上げた虚構を改めて持ち出すことで何かを乗り越えようとしているのか!?と庵野オタクは胸をドキドキはぁはぁさせる萌えポイントでもある)

 もちろんゴジラ作品としても、類を見ない程に作り込んだ現実の上で伝統的虚構性を踏襲することは大きな意味がある。

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 そもそも初代から『ゴジラ』とは核実験の副産物であり、その副産物が日本に上陸し、自衛隊がそれと戦うという図式は、戦時中に核を落とされ、まだ多くの人がその災禍に苦しむ日本の戦後社会としては極度のヒステリックな倒錯に満ちた作品であった。そして東宝はそれをエンターテイメントとして昇華し続けた歴史がある。

 こうした自国の傷に塩を揉み込みながらもエンタメにしてしまうのが『ゴジラ』なのだが、このシリーズが続いてきた足跡を評価するなら、ゴジラ流の屈折した"乗り越え方"が日本人の一つのスタイルなのかも知れない。

 また、ゴジラがただの天災でなかったように、虚構を現実にするのも、現実を虚構にするのも我々の手に委ねられている。

 ともすれば、「スクラップアンドビルドでこの国はのし上がってきた」という本作の有名なセリフは、その現実と虚構のサイクルをポジティブに解釈したものといえるだろう。

 言い方を変えれば、シンゴジラは現実と虚構によるアウフヘーベンとその可能性を試みているのだと言える。

 だからこそ、今の我々もパンデミックというフィクションのような悪夢に晒される中、より強い虚構を必要にしているのかも知れない。

 積極的なフィクションが必要なのである。

 そしてその積極的なフィクションが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に期待される事は疑念の余地がない。

 何故なら、虚構を提出するのは文学、芸術、もしくはエンターテイメントの仕事だからである。

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 それは庵野秀明自身が最も痛感していることだろう。

 が、新劇場版エヴァを単にシンゴジラの延長として見ることには無理があるので、書こうとすれば補足にもう一稿必要になる。

 ………。

 ああ、やっぱりこの記事では行けませんでした、ここまで真面目に読んでくれた方、すみません。

 シンゴジについてもまだまだ書きたいことはあるんだけど、気が向いたら続きを書きます。

 追記:書きました↓


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