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Re: anymore

ああ、強く生きていかねばならない、と人生で何回思うことになるんだろう。

先ほど一人の男を振ったばかり、相手のアメリカーノが半分以上残っているのが勿体なくて自分のほうに引き寄せた。彼は泣いていた。わたしはひとりでは生きていけないくせに、またこうやって自分だけを見つめてくれる相手をぶった切ってしまう。

息を大きく吸う。夏になっていく。冬に出会ったあなたを思い出す。摂氏マイナス七度の極寒のなか、一緒に来るかわからないバスを待ったあのバス停を思い出す。思い出すという行為を紐解いて、あなたがもうわたしの人生において過去になってしまったことを頭でまた悟った。もうぬるくなったアメリカーノに口をつける。

あの経験でわたしは何を得たのだろう。きらきら胸を刺してくる、尖ったガラスの記憶でわたしはなにを得られたのか。あなたの笑顔はもうわたしのそばにはいない。それが寂しくて、やるせなくて、どうしようもなくひとりで、いつだってそばにいたくて、あなたにとって百パーセントの女の子でいたくて、そうじゃなかった自分の歯がゆさで近くの性欲に手を伸ばしてはちゅるちゅる雑な好意を吸って生き永らえていた。
そうやっていい加減に生きていると、いい加減な愛想や愛嬌だけがめきめき成長していって、やたらめったら誘蛾灯としての自分が形成されていく。

それでいいのか。こんな自分をあなたは愛してくれたんだろうか、抜け出せない迷路の中、ずっとまわりまわってずっとスタート地点をうろついている。いっそのこと初恋のようにわんわん泣いて終わらせられたらいいのに。もうどうやったって彼のことは嫌いになんてなれない、この綺麗に、もう動くことはないこの記憶に振り回されて心を陰らせている暇なんてない。そんな心の隙は作らない。もう、終わらせても、いいのかもしれない。
わたしが、大事にしていた、愛だったものは、もう酸化して、形を変えようとしている。その前に、大惨事になる前に、それを食って自分の教訓に変えてしまおう。これはわたしのもの。
ありがとう、あなたがいたから気が付けたこと、なくしたと思い込んでいた、もう手に入らないなにかだと思って仕舞い込んでいた、この記憶。最後にわたしのためだけのプレゼントを引っ張り出して終わりにしよう。

ぐい、とマグカップを大きく傾けてアメリカーノをごくごく飲んだ。口の端めいっぱい流れ込んでくるこのコーヒーを飲み干していく。あなたの声が聞こえる。遠くなっていく。あなたの声が聞こえる。また遠くなっていく。涙がこみあげてくる。マグを持つ右手が震える。目をぎゅっと閉じる。ああ、強く生きていかねばならない。強く、生きていかねばならない!

頬に一粒、記憶のガラスの破片がおちて、それを初夏の日差しが澄み上げて照らしていた。ジャズが静かにかかった店内にはほかに人はいない。空になったマグカップを置いた彼女は大きくうなだれて、それから目の前をきっと睨んだあと伝票を持って立ち上がった。ヒールの音が外に向いて小さくなっていく。テーブルの片方の側に、溶けかけた氷が入ったグラスとマグカップが並んで置いてある。ウェイターが暇そうにやってくると、それらを下げて消毒液を振りかけた。六月のはじめ、平日の夕方のことである。

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