萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係⑥

萌え要素と萌えの違い

さあ、そろそろこの文章もまとめにかかろう。

改めてこの文章の目的は、2つだ。

1. 萌えは愛の上位概念という言葉はどういう意味なのか?
2. 東浩紀の内なるカントによって、東浩紀を再解釈させること

この目的を果たすために、もちろん、最後に召喚するのは、批評界のアルファにしてオメガ。東浩紀である。改めて、東のテクストと宇野の解説について吟味してみよう。

私とあなたは絶対に分かりあえない。したがって,私は私の内面を,あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし,にもかかわらず,私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私の中には,たくさんの「神々」が,コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて,あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり,それらが勝手に衝突しあうことで,「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間,「あなた」という一人の人間,その両者は決して出会うことはないけれど,しかし,私の手とあなたの手が,あるいは私の唇とあなたの唇が,あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が,ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い,勝手に離散することで,私達のコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。
(hirokiazuma.com 2002年1月17日)
http://web.archive.org/web/20061105022432/http://www.hirokiazuma.com/oldinfos/diary2002.html
ここで東が論じていることを簡易にまとめれば,それは「恋愛」(近代的内面を必要とする)は「萌え」の下位カテゴリである。いや,下位カテゴリにならざるをえないということである。前述の比喩に倣うなら(解離的な複数性を伴う)「萌え」とはポリフォニー的なものであり,そして「恋愛」とはポリフォニー的前提を受け入れた上で成立する自己矛盾としてのモノフォニー的な行為,つまり「萌え」の奇形的なバリエーションでしかありえない,と記述することができるだろう。
(東浩紀『郵便的不安たちβ』解説 宇野常寛(2011, p. 423)

東浩紀は、この文章の中で、「私」の中には複数のモジュール、神がいると論じている。さらに、「萌え」ではなく、「萌え要素」と論じているのだが、解説で宇野は「萌え」に言い換えてしまっている。ここで、彼は重大な間違いを犯している。

萌え要素と萌えの違い。これは、見過ごしがちだが非常に重要な違いである。『動物化するポストモダン』を見てみよう。

消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号を、本書では、以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。萌え要素のほとんどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが萌え要素になっている。
『動物化するポストモダン』

上記の通り、東浩紀は、実は明確に萌えと萌え要素を区別している。萌え要素は記号つまりデータであり、データベースに登録されるものである。私の言葉で言えば、モエ自体なのである。

その議論を踏まえた上で、『はじあず』インタビューをもう一度見よう。

斎藤大地(以下斎藤): はい(笑)。ところで,東さんには「萌えは愛の上位概念」という言葉があるじゃないですか。
東浩紀(以下東): あー,はいはい。
斎藤: 最近,僕より若い世代くらいの連中と喋っていると,それをとみに感じるんです。やはり学生時代からそういったことを感じていましたか?
東 うん。感じていましたけどね。人間って変化するじゃないですか(略)そうなると例えば,「まったく変わってしまった三十年後の彼女を好きだ」っていうのは一見美しいように思えるけど,今の彼女を好きならば,三十年後の完全に変わってしまった彼女は好きにならない方がいいんじゃないか?とも言える。
そう考えていくと,固有名を好きなことと,固有名にくっついてる特性が好きなことは,現実にはけっこう別のことだったりする。人間はどっちを好きになるのか。そんなことを色々考えてしまうひとなんですよ。僕は。それで柄谷行人にも行ったし。
それで,「萌え」っていうのは,基本的に確定記述じゃない。だから固有名がないタイプの好きのひとつ極限のかたちだよね。だから「萌え」と「愛」みたいな話が出てくるのは,そもそも確定記述と固有名のどっちを好きな方が正義なのかってこと。そんなことを考えていたりする。
「東浩紀拉致インタビュー」『はじめてのあずまん』(2011)pp.109-110

ここでは、東浩紀は、萌えとしか言っていないのである。もちろん、口述でそこまで厳密な区分けを常にしているのかはかなり疑問だ。とはいえ、東の発言を見る限りは、ここでは萌え要素の話をしていないことは事実である。

結論

萌え要素と萌えの違い。それは、萌えは愛の上位概念と語る時、東浩紀は、モエ自体のことではなく、現象としての萌えを論じていたとするならば?

結論をそろそろ語ろう。

東浩紀は、萌え要素=モエ自体を、何らかのモジュールを、通じて萌えへ変換しているという。

それは、カントの用語で言えば、萌え要素を、「感性」で知覚し、その感覚を「悟性」によって意味づけた概念こそが萌えなのである。

さらに、その複数のモジュールが生み出す複数的な萌えの衝突を解消させるために「理性」が呼び出され、複数的な萌えは、単数的な愛へと変換されてしまう。

上記の通り、萌えは常に愛に先立つ。正確に言えば、更にそれより前に萌え要素=モエ自体が存在する。ということなのである。これが、萌えは愛の上位概念と言う謎の答えである。

さて、これで、この文章の目的は達成出来たと思う。

最後に、なぜこの文章を書かねばならなかったのかを簡単に述べたい。

実は私はゼロ年代には東浩紀を知らなかった。直接東浩紀に出会ったのは、2010年の早稲田大学のウェブ文学論だった。その授業は、カフェテリアの上のいちばん大きな教室でも立ち見が出るほどの満員でこんな授業があるのかと驚いた。

それほどまでに東浩紀の人気は凄かった。

もちろん、授業の内容も凄かった。というよりそこから本当に1年間は東浩紀のTwitterをチェックし、イベントはどんなに遠くても参加した。そして、連載中の『一般意志2.0』に感動して、それで卒論まで書いてしまった。そこで、出会ったのが同じく『一般意志2.0』で、卒論を書いたもう1人の馬鹿、齋藤大地である。

そして、確か初めてあったその日に一緒に東浩紀同人誌を作ろうとツイートしたところ、東浩紀本人に捕捉され、本当に作ることになった。それが、卒論を提出した2011年の1月末だったと思う。

つまり、3.11の直前だった。はじあずは、そんなゼロ年代の祭りの余韻がまだ微かに残っていた時に、生まれたのである。

もちろん、アッパー感(By東浩紀)で、知識もなくノリだけでやってる私たちには反感を持つ人も実際いた。ただ、それでも私たち東浩紀という固有名を愛していることは、間違いなかった。多くの初対面の人達がただ、愛だけで集まった。それだけで凄いことが起こっていると、感じた。

そんなプロジェクトが、『はじめてのあずまんω』だった。

私には、中学の頃から考えていることがあった。それは、今この愛する人が急に化け物に変わってしまったら、それでもこの人を愛すると言えるのだろうか?ということだ。それは、確定記述が全く変わっても、固有名を愛することが出来るのかという問でもある。

はじあずインタビューで東浩紀が語ったのはまさしくそのことだった。30年後の彼女を変わらずに愛することが出来るのか?その問いを考えている人がこんなにも多くいたということ。それは、批評に私が救われた瞬間だったのかもしれない。

批評は、役に立たないとか言う人がいる。批評そのものは、仕事では役に立たないかもしれないが、思考の枠組みや相手の考えを理解するための訓練として、私は実際に役立っているし、それを言う人はたぶん、批評への愛が足りていないのではないかと思ってしまう。

批評は全ての人に開かれている。何も分かっていなかった私たちを救ってくれたのは批評の力だった。数多くの召喚獣こと批評家・哲学者を召喚したのは、いまや東・宇野のラインでしか語られなくなってしまったゼロ年代批評にあった多様性を今の若いひとたち、昔の私たちに知って欲しかったからである。もちろん、ネタにしている以上にリスペクトしているので、ネタにされた人は怒らないで欲しい。

これは、昔に書いた声優を論じた声幽ネットワーク論から、声優成分を抜いたものである。だが、基本的に言っていることは同じであるし、あちらの方が実はもっとすごい事をやっているので、ぜひとも読んで欲しい。

ではまた!

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