お詫び、批評について考えること、そして、お願い-批評を愛する1人としての手紙

まず、今回の批評界隈にかかわる騒動に関して、非常に不快な思いをさせてしまった方々に対して大変申し訳ございませんでした。多くの人の心情を害してしまったことを深くお詫びします。

下記は弁明として、批評を愛する一人の人間として私が何を考え、行動したのかを記します。そして、最後にお願いがあります。

批評を愛する一人の人間として考えること

私は、いわゆる批評というもので、人生を変えられたと思っている。

具体的には東浩紀さんに出会い、はじあずという同人誌をつくった。そこから、関西クラスタという読書会のコミュニティをつくり、多くの人に出会い、学び、そして時には論争もした。間違いなく言えることは、批評との出会いがなければ、今の自分はここにいないということだ。

だが、私は考えてしまう。私はただ運が良かっただけなのではないか。たまたま、周りの人に恵まれ、幸せな批評に出会うことができた。たまたま、批評というものに愛にも似た何かを感じるようになってしまった。だが、そうではなかった可能性のことを常に考えてしまうのだ。批評と不幸な出会いをしてしまったかもしれない自分のことを。そして、今回のことはそれをまた強く私に考えさせた事件でもあった。

批評を語ることが非常に困難になりつつある。少なくとも、私が批評に出会った2010年の頃よりはずっと。宇野常寛さんは、新著『水曜日は働かない』の中でこのように書いている。

僕はいわゆる「業界」からいよいよ完全に距離を置くようになった。僕がかつてかかわっていた出版業界の、俗に論壇とか文壇とか言われる業界はほんとうに陰湿なコミュニティが多く、自分たちの村の空気を読まない人間や、目立ちすぎた人間がいると、すぐに業界の中ボスのような人間が出てきてその取り巻きたちに袋だたきに遭う。具体的には、そのコミュニティのボスのような存在がいて、取り巻きは機嫌を取るために主に「飲み会」でそのボスが敵視している人間の悪口を言う。それが時折、 Twitterや Facebookに漏れ出して、こいつはみんなそうしているのだから叩いて良いのだという「いじめ」的な空気がつくられていく。僕も、さんざん年長の物書きから悪意を持って脚色された風評を流されたり、彼の取り巻きに嫌がらせをされたりした。普段口では「分断を許さない」とか、「友敵関係を超えた思想」とか言ってる人たちが裏ではどれだけ陰湿なコミュニケーションを取っているかを思い知って、心底ウンザリした。
宇野常寛『水曜日は働かない』(ホーム社)

宇野さんほどは、私は絶望はしてはいない。だがその絶望はよくわかる。

たぶん、これは実際は、最近に始まったことでもなく、長年批評の持つ病のようなものであるとも思う。

だが、それでも私としては、批評に救われてしまった人間としてはまだ批評の可能性を信じてみたいのである。

とはいえ、私は批評のプレイヤーになるつもりはない。ただ、批評を愛するものとして、今の状況が非常に残念でならない。だから、思ってしまうのだ。かつての私と同じように幸せな出会いを今の若い人達にして欲しいと。

だから、今回の騒動については、ただただ残念なのである。

私は、単純に批評を愛する先行世代として、今の若い人たちが批評に対して怖いとか陰湿とかそういうネガティブな感情を持って欲しくない。少なくとも若かった私が出会った沢山の「大人」の人々は、私が誤った道に陥りそうになった時に手を差し伸べてくれた。だから、私も、多少なりともその役割を引き受けたいと思うのだ。

ポジティブであり、なおかつ馴れ合いでもない、心理的安全性の担保された上で議論を積み重ねるような建設的な批評はどうすれば可能なのだろうか。私が問題にしたいことは、それに尽きるのかもしれない。

何故、攻撃的な発言を責めなかったか?

私が今回問題だと思ったのは、批評に対しての見え方の問題である。それは、内側ではなく、外からどう見えているのかということである。

今回も含めて、批評界隈がいつもやっているTwitter上での応酬は、客観的に見て、怖いと感じる人が大半だろう。それは、多分もう村の中に入ってしまった人はわからない。新入社員が、会社に入っておかしいなと思っていたとしても、いつの間にかそんなものかと思ってしまうのと同じように。だが、重要なのは、外の視点を忘れないようにすることなのである。

私は、今回の件を友敵の論理に回収すべきではないと考えている。本来は批評を愛するもの同士なのだから、きちんと話をすればいい。それだけの事を言いたかったのである。もちろん、過剰に攻撃的であったりすることは良くないし、客観的に見て法律に抵触するような言葉は粛々と法律によって対処されるべきだとも思う。(責任はやはり取るべきだと思う)

だが、それだけでは悲しすぎはしないか?批評を愛するもの同士の不幸な出会いを生み出すのはもうやめるべきだ。それよりも、きちんと対話をして、お互いの大切と思うことを理解することが重要なのではないか。

私はあえてTwitterで、攻撃的な発言をした彼の行為について咎めなかった。十分に周りから問題点が語られていたからである。そこで彼とスペースや読書会で何度か話した私からも同じように、そのことを発言してしまうと、追い込んでしまうかもしれないと考えた。悪いことは悪い。ただ、個々人が、正義の制裁を与えるのではなくて、粛々と法律や運営(Twitter)によって解決されるべきものだと思っている。だからあえて発言を控えたのである。

ではなぜ敢えて発言したのか?

私は、友人である某氏の新しく立ち上げた批評のポータルサイトについては、大きな可能性を感じている。少なくとも、バラバラになってしまった批評のピースを繋ぎ合わせるような取り組みは心から応援をしたいと思っている。

だが一方でその期待が大きいからこそ、振る舞いについてはもう少し慎重であるべきなのではないかと思うのである。

自分がかつて当時の古参の批評クラスタを見ていたのと同じように、たとえ本人が「なにものではない」と思っていたとしても、人数が多かったり、知識が多い様を見せつけられると大きな影響力があるように見えてしまうものである。

だから私は、一回り若い人たちに対して語りかける言葉は、慎重に選びながらしゃべるようにしている。彼らには彼らの思想があり、それを尊重しつつ、謙虚に理解しようとすることが大事なのである。個々人の切実な問いは、勉学の量や質ではなく、批評的な技術でもなく、その人個人のものであるのであるから。

他に適当な表現が思いつかないので、誤解を恐れずに言うと、大人と子どもの非対称性は、どうしても存在する。大人は物事をパターンとして処理しがちだし、子どもは、今見えている現実が全てだと思ってしまう。

そのことを、大人の側は理解した上できちんと応答していく必要がある。責任ある個人として、子どもが何を考えているのかを想像すること。他者の思考をシミュレーションしながら、共感することは、リベラリズムの根幹ではなかったか。

私は、某君の所属するグループのスペースに参加した時に、某氏界隈への批判を聞いたことがある。私としては、彼らの主張には、全面的に肯定ではなかったが、すくなくとも妥当であると考えられる部分はあると思った。とはいえ、それらの批判に対しての応答も、某氏達側もきちんと考えをめぐらせており、それは恐らくは、私=文学と公=政治をどちらを重視するかの態度の違いであって、それは共通する問題意識があるという話をした。(と記憶している)彼らも、多少なりともそれに関しては納得してくれたように思っている。話してる時の印象は、そこまで攻撃的ではなく、その切実な問題意識に、非常に私は感銘を受けたのだった。正直に言えば、そこに、過去の自分の姿を見てしまったのである。

だから、その経験も踏まえて、彼もまた批評を愛する1人であり、少なくとも批評のゲームを理解できる人であると私は思うのだ。だから、私は分かり合える希望にかけて見たいと思うのである。

ここで言う分かり合うというのは、全く同じ思想に染まるということではなく、同じ物事を見て、違う考えを持つ他者について理解することなのである。そして、それらは、本来的に対立するものではない。と私は信じたい。

私は、友敵の二項対立を、愛によって乗り越えられると思うロマンチストなのだろう。だけど、それで別にいいと思っている。私は誰の味方でもなく、敵でもなく、ただ、批評という文化を愛する一人として、そして、某氏の友人として、あるいは、某君の年長者として、言わなければいけないことをきちんと伝えていきたいと思った。だから、発言した。

逆効果になってしまったことは私のコミュニケーション能力がいささか足りてなかったせいである。重ねて深くお詫びしたい。

そして、お願い

最後にお願いだが、やはりこれ以上の不毛な騒動の拡大をやめてほしいということ、これに尽きる。批評を愛するもの同士で争いあっても誰も得をしない。だから、お願いである。これ以上の応酬をやめてほしい。本当に。批評を誰かを傷つけるための道具にするのはもうやめるべきだと思う。

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