萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係①

萌えは愛の上位概念という謎

詳しい初出は私もわからないが、思想家の東浩紀は10年以上前に「萌えは愛の上位概念」という謎めいたワードを語っていた。

わたしは、自分が発起人でもある東浩紀同人誌『はじめてのあずまん』の本人インタビューの中で語られた時に知ったこのワードを10年以上考え続けている偏執的な読者である。少なくとも、このワードについては、世界の誰よりも深く考えてきたと自負をしている変人である。

だから、わたしなりにこの謎めいたワードとはなんだったのか?を改めて記述してみたい。改めてというのは、実はこれはもう過去に一度試みてはいるのだが、やはり再読してみると論点が混乱しており、わかりづらいということと、他の理論編なども入れると膨大な文字数になるので、読まれにくいという難点があったからだ。

結論から言えば、東浩紀の言う萌えは、カントの言うモノ自体と類似として読むことができ、萌えは常にすでに愛に先立つものであると考えられる。そして、萌え自体(モノ自体)には、絶対的に到達不可能なもの=超越的なものであるがゆえに、東浩紀は萌えは愛の上位概念と語ったのである。

まあ、哲学的なタームを使うのは、批評クラスタの悪い癖であるが、いきなり「結論」とか「要するに」といったときには、「これから批評ワードのオンパレードだぞ」の言い換えなので許してほしい。(必ずしもそうであるわけではないが、多くの場合はそうである。知らんけど。)

より一般的なわかりやすい言葉で言い換えれば、人は萌えというモノを、後付けしてそれを愛という現象として解釈しているという単純なことなのである。萌えは、言語化不可能な何か(モノ自体)であり、解釈されてしまった時点で、萌えというモノは別の現象へと変わってしまう。それを多分人は愛だと便宜的に呼んでいるのである。だから萌えそのものは決して理解できないものなのであるということだ。

東浩紀の内なるカント

ここで、さらに論を進めるにあたって、補助線を導入したい。

先立つとか超越とか色々語っているのも、批評クラスタにはお分かりの通り、もちろんカントからの流用である。私がこの文章であきらかにしたいもう一つの目的は、東浩紀はいかにカント的であるかということだ。

東浩紀に影響を与えた思想家として、筆頭に上がるのは、キー概念の誤配の元ネタになっているフランスの思想家であるジャック・デリダか、一般意志という概念を提唱したジャン・ジャック・ルソーの二人だと思う。他にももちろん、精神分析のフロイトや日本の批評家である柄谷行人という存在も大きいことは否めないが、2人を選べと言われれば,この二人になるだろう。

この二人のジャックの関係性を考えると,ルソーの読者としてのデリダということが言える。それが分かりやすいのは、『グラマトロジーについて』であり、デリダはルソーの『言語起源論』の再解釈(脱構築)を行っている。

そして、さらにそのデリダを読者である東浩紀が再解釈し、、、というのが哲学の系譜とも言えるものだ。ホワイトヘッドがかく言うように、全ての哲学はプラトンの引用であるとも言えるのは、哲学の営みはそうした再解釈の歴史でもあるからだ。

そこで重要なのは、ルソーの読者であるカントの存在である。有名なことであるが、ルソーの少し後の時代に生まれた哲学者のカントはルソーの良き読者でもあった。それについての詳細はここでは書かない。

1番最近の主著である『観光客の哲学』の中で、東浩紀はあまり語ってこなかったカントについて言及をしている。だが、これは必然であると私は考えている。

東浩紀はもともとカント的発想によって、デリダを再解釈してきたし、ルソーを再解釈してきた。東浩紀の根本的な世界観あるいは考え方である乖離といった二層構造による分析は非常にカント的な考えに基づいているというのが、私の考えである。

東浩紀の内なるカント。それを私はこの文章によって考えてみたい。ルソーの読者としてのカント、デリダ、東浩紀。そしてそれらの読者としての私がその系譜を逆展開させてみるという試みだ。

・・・短めの文章をサラッと書くつもりだったが、これは果たして終わるのか。そもそも今の2000字弱でiPhoneのフリック機能の限界を感じる。(pcは、子育てには向かないデバイスである)

今は全く記憶だけで書いているので、参考文献などは後から足すかも。

とゆわけで続く。

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