萌えは愛の上位概念(©︎東浩紀)とはなにか-あるいは確定記述と固有名と愛の関係④

カントのモノ自体からデータベース消費を考える

③では、萌えと推しの違いを考えながら、最終的には、モエ自体という概念を生み出した。

このモエ自体は、前述したように、モノ自体から由来するので、そろそろカント大先生を召喚しなくてはいけないが、どうやら私のMPでは難しいようだ。だから少し別の人を召喚して手助けをしてもらうことにする。

それが、現代思想界のギルガメッシュこと千葉雅也である。

千葉雅也は、博士論文を元にした『動きすぎてはいけない』で、デビューした哲学者である。その本は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが残した「動きすぎてはいけない」をキーワードに東浩紀の『存在論的、郵便的』やら『動物化するポストモダン』の問題系を引き継ぎ、なおかつ、接続過剰とも呼べる世界において、切断することの重要性を論じた。

最近では、新書大賞2023で、『現代思想入門』が大賞を取るなど、現代を代表する哲学者のひとりである。

そこでは、モノ自体の説明は以下の通りされている。

 人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。この、それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。人間にはフィルターみたいなものが備わっていて、それを通ったものしか見えない。フィルターを外して世界がどうなっているかはわからない。ちょっと言葉が難しいですが、このフィルターをカントは「超越論的なもの」と呼びました。別の喩えをすると、超越論的なものとは、思考のOS(WindowsやMac OSなど)みたいなものです。
千葉雅也 『現代思想入門』

この説明は非常にわかりやすい。さらにパソコンに例えるなら、モノ自体はバイナリデータであり、それをなんらかの拡張子を加えて、アプリケーションを通すことで、現象として表すことができる。それを支える超越論的なものは、OSなのである。

カントの用語はその言葉の持つインパクトによって理解しにくいが、このように解釈すれば、実はカントの超越論的なものとは濱野の言うアーキテクチャとほとんど、同じようなものとして理解することも可能である。

つまり、モエ自体はデータそのものであり、何らかのアプリケーションを通じてそれが萌えに変換され、ファイルとして保存される。それらをさらに活用して、統合していくと愛に変換されるし、時には憎しみだとか全く別のものにもなりうる。

モノ自体はデータのことである。これは重要な指摘である。

批評クラスタならもちろんピンと来たことだろう。

『動物化するポストモダン』のデータベース消費とはつまりカントの言うモノ自体=モエ自体=萌え要素のデータをオタク的な主体が萌えとして変換し消費する仕方のことであったということだ。

さらに言うならば、東浩紀のいう誤配が発生するのは、モノ自体を主体が読み込むOSやアプリケーションの違いによって起こりうるものであると考えるならば分かりやすい。拡張子の違いによっても誤配は起こりうるのだ。実は『動物化するポストモダン』の後半部にこれとほとんど同じことが書かれているのだが、いかんせん前半部の議論で引っかかっている人が多くあまり読まれていない。非常に残念な事だ。

以上のように、東浩紀の思想は、カント=千葉のOSを使えば実は容易に説明がつくのである。

なお、この文章の目的は、東浩紀がいかにカント的発想であるかを論じたいだけなので、カントの本質的な議論までは立ち入るつもりはない。私はよくリアルでも文章でも「とりあえず」「仕方ない」を多用してしまうが、プラグマティックに前に進むためには、そのような考え方をする必要がある。でないと、東浩紀の謎は解き明かすことはほぼ無理だからだ。それは、東浩紀が隠喩的な表現をそこかしこに暗号のように散りばめるという少々めんどくさい書き方をしていることもある。一つ一つに立ち止まってしまったら星座の位置など見えはしない。

私たちは今探偵のように、東浩紀の思想の核心に近づいている。だが、その核心こそが、モノ自体=データのようにどうとでも読めてしまうことが問題なのだが、それでも私たちは虚構推理によって、より面白く東浩紀を読むことが出来る。

読むことによるハッキング。それこそが哲学の営みの一つであるのだから。

とゆわけで続く。

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