梅原猛さんと東浩紀さんと祖父

これは非常に個人的な話だ。

先日、哲学者の梅原猛さんがお亡くなりになられた。
その追悼として、2012年の東日本大震災をテーマとした批評家の東浩紀さんと梅原猛さんの対談がNHKで再放送された。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/91300/1300041/index.html

かくいう23歳の時の私もその対談の場所に同席していた。
たまたま、私は関西に住んでおり、京都の梅原猛さんの自宅で収録するということで、東浩紀さんの方からお誘いがあり参加することになった。

あの時、若かった私は、怨霊、鎮魂など死についての思考を巡らしてこられた哲学者として、震災という大きな死について、どのように社会的に受け止めるべきなのか。ということを梅原猛さんに問うた。

今考えても畏れ多い質問だが、この問いに対して真摯に答えていただいた。

梅原猛さんは、このようなことを言われた。要約するとこうだ。

**震災を目にしたとき、戦争のことを思い出した。

戦争という死を間近に目撃し、勇敢に戦えず、生き残ったことが罪悪だと感じている。死んだ人に対する後ろめたさみたいなものがずっと残っている。これは、梅原猛さんより上の世代でないと分からない感覚である。だが感覚は、もっと下の世代の人にも伝えていかなければならない。

東日本大震災でも同じ様な悲惨な光景を見た。そのとき、やはり今の文明は間違っているということを強く感じた。その時、自分が出来ること、新しい哲学を作るということを考えた。それが梅原猛さんにとっての「鎮魂」であると考える。**

後ろめたさ。後ろを見ること。
震災を経験した私たちにとってそれは抱え続けるべきものなのだ。だが、あの当時、前に進むことが正しいことのように言われていた。社会はあの震災を急速に過去にしようと、忘れようとしているように感じていた。復興の二文字で。

梅原猛さんが戦争で感じたこと。そこからずっと考え続けてきたということを聞いて、やはり過去を忘れないこと。後ろめたさを感じながら生き続けることが、私たちにとっての使命のようなものなのだという感じた。

実を言えば、あの時の私にとってこの質問は、非常に個人的な問いかけでもあった。
それは、個人的な死、祖父の死である。

あの時は、誰にもその意味を打ち明ける勇気がなかった。
だが、7年経った今、あの時の思いを改めてちゃんと書いておこうと思う。

ちょうど撮影した年の少し前、2012年1月の正月明け。祖父が亡くなった。

物心つく前に母が離縁し実家に戻りそこから私は祖父母の家で母とともに育った。
私には「父」はいないが、祖父はそれ以上に私を厳しくそして大切に育ててくれた。

祖父は、周りから見ても豪放磊落で、破天荒な人だった。
それは家族にとっても同様で、孫の私に飛行機を乗せたいという理由で、夏休みの朝から、無理やり大阪から北海道へほぼ連行のような形で連れていき、海鮮丼を二杯食べて日帰りするようなこともあった。
(翌日、私は疲れからか高熱を出して倒れたが祖父は元気だった)

大学で東京に出た私はまともに祖父と酒を酌み交わすことすらなかった。いつかまた。そう思っていた。

だからそんな祖父が突然亡くなったという事実を、あの当時受け止めきれないでいた。

ただひたすらに過ぎ続ける時間と繰り返される儀礼の中で、私はただ呆然として死を受け入れられないでいた。

そんな中、私はあの問いをしたのだった。あれは、だからあの震災の多くの死について、社会がどう向き合うかだけではなく、個人的な祖父の死について、私がどう向き合えばいいのか。そうした二つの意味を持った問いだった。

死をどうやって受け入れるか。

それは、誰かの力を借りるのでなく、自分の頭で考えるのだ。自分が出来ることは何かを。

ちょうど、祖父の死とは別に私は京都で大学院を博士に進学するか、就職するかを迷っていた。
だが、梅原猛さんの言葉を聞いて、考えた末、祖父が経営していた会社に入ることを決めた。

あの時、たまたま東浩紀さんから収録に声を掛けて頂かなければ、今の自分はいない。
あの時の梅原猛さんの言葉がなければ、今の自分はいない。
そして、祖父が、家族がいなければ今の自分はいない。

30歳になった今、ありえたかもしれない人生を想像する時もある。
だが、全ての選択の結果が、今ここにある自分である。

7年経った今も私はあの言葉の意味を考え続けている。だが、時間が全てを解決するではないが、ゆっくりとだが少しずつ何をなすべきか、自分で考えられるようになってきた気がする。後ろめたさを感じながら、いや感じるからこそ前に進めるのだ。

繰り返すが、これは最初に述べたようにあくまでも個人的な文章である。
だが、それでもあの時のあの言葉の誰にも言えなかったあの言葉のもう一つの意味を誰かに伝えたかった。

そして、東浩紀さんに、梅原猛さんに、そして、祖父に感謝の意を伝えたかった。

ただそれだけのことである。

梅原猛さんは、最後に「一粒の麦死なずば」という言葉を私たちに送っていただいた。

私もその一粒の麦を大切に育てていきたいと、また誰かに伝えていきたいとそう考えている。

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