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8/28の日記

右肩が骨を刺すように痛くて、目が覚める。
13時半。
「惣菜パン」を食べ、薬を飲む。
再び寝る。
次に起きたのは18時半。
夕食はハンバーグ。おいしい。
食べたあと、だんだん具合が悪くなる。
体は疲れているが、痛みは、ふだんのように足や胸が少し痛む程度。しかし、自分の体のことが心底どうでも良い。身体的には、さして苦しくもないが、死にたくなる。死ぬほど苦しくはないが、やがてもっと痛みや苦しみは増すだろうし、もはや楽しいことはあり得ないだろう。さっきのハンバーグはおいしかったが、その程度であろう。頭はぼーっとしていて、本や映画の内容も前のように理解できないので、つまらない。こういう時、いつもなら家族のその後を考えて思い止まるのだが、今やそれもどうでも良いとしか思えない。私が死んだら、母はショックを受けるだろう。しかしそれでも彼らの人生は続く。彼らもまた彼らなりのどうでも良い一生を送るしかないのだ。あるいは、自分の生の「意味」を考えて、まだ書くべきことや、人に話すべきことが残っているのではないかと思ってみるが、それもどうでも良い。もはや何も思い残すことはない。私の生も死も、周りの人々も、すべてがどうでも良い。
トマス・アクィナスは「すべての感情は愛に由来する」と言った。憎しみも、愛があるからこそ、憎たらしいのだ。
私は、これを私流に解釈して、「『どうでも良い』と思うということは、何か『どうでも良くないこと』があるということである」と思うようにして来た。
具体的にいうと、人類や生物の広大な歴史の流れの一部を、私の人生は形成してるわけだ。だから、生きていて、大いなる流れの中で、自分なりに良いことを選択しようとするのは「どうでも良くない」ことに属するはずである。
しかし、今回はそうでもない。本当にすべてがどうでも良いとしか思えない。
そんな気持ちで、家族が寝入ったら死んでしまおうと思いつつ、数時間、横になっていた。
ふと、机に積んであった本の中から、哲学史やブックガイド(『必読書150』とか)の類を選んでパラパラとめくる。
まだ読んだこともない古典のタイトルがずらずらと並んでいる。これらの大半を読まずに私は死ぬだろう。しかしそれが何だというのか。
だが、見ているうちに、読めるなら読んだ方が良いのではないかと思えて来た。
『史記』。『リバイアサン』。道元『正法眼蔵』。『精神現象学』。『失はれた時を求めて』。……
古典的名著を生み出して来た人類の歴史からすれば、私個人が生きようが死のうが、まさにどうでも良い。しかし、「どうでも良くない」大いなるものの存在に触れ、認識するためには、私の肉体は生きている必要がある。
よく考えてみれば、「人類の叡智」はわりと「どうでも良くないこと」に属するだろう。命が続いて、本が読める限り、読んだ方が得ではないだろうか。
そう思えて来て、私は私個人の「どうでも良さ」を耐え抜くことができたのだった。

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