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「天使のいない世界で」第1章 あたたかな場所には、とどまれなくて(6)

 *   *

 港に到着するなり無理やり押し込まれた診療所から出ると、潮風の匂いがした。
 正面にある建物の日に焼けた壁に寄りかかっていたエルが、こちらに向かって歩いてくる。

「お待たせしました」
「ずいぶん早かったなあ。ちゃんと手当てしてもらったんか?」

 案の定傷はもうほとんど消えていて、医者には「かすり傷だよ。君の恋人は心配性だね」なんて笑われてしまったのだが、それは秘密だ。エルの目を誤魔化すために、包帯だけは巻いてもらってきた……というのが現状である。

「もちろんですよ。ほら」

 そう言ってブラウスを少しずらし肩に巻かれた包帯を見せると、エルは口元を引き上げて満足げに「よし」と頷いた。

(よかった……。付き添いを断って正解だったよ……)

「――にしても、しょっぼい港やなあ」

 エルはそうぼやくと、やれやれという感じで首を横に振った。

 クロッカス港は、定期船が一日に一、二便出るだけの、小さな港だ。
 敷地内には、申し訳程度の露店や、個人経営の食堂が点在している程度。街道に続く方へと歩いて行くのは、大きな荷物を背負った行商人や、剣や弓を装備した旅人が数人といったところだ。
 閑散としているが、都会の港にはないゆったりとした雰囲気が流れてる。

「わたしは、このこじんまりした感じが好きですよ」
「なるほどなあ。ネリネ村といい、メイちゃんはこーゆー辺鄙へんぴ……じゃなくて、まったりした場所が好きなんやな。しっかり覚えとくわ。将来のために」

 うんうん、なんて頷きながら少し前を歩くエルの背中をじっと見つめる。
 服の上から肘あてが装着された腕を見ながら、疲れているんじゃないかと不安になった。自分で歩けると何度も言ったのに、彼はここに到着するまでずっとメイを横抱きにした状態で歩いてきてくれたからだ。
 それに今もなお、自分のものの他にメイの荷物まで担いでくれている。

(本当に優しい人だなあ)

「エルさん」
「ん?」

 エルが立ち止まり、小さく振り返る。黒髪がさらりと揺れたが、やはり瞳は見えない。少しだけ残念に思いながら、メイは深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました」
「はは、何や急にあらたまって」
「無事にここまで来られたのは、全部エルさんのおかげです。やっぱり、何かお礼をさせてください」

(お礼って言っても、食堂で何かを御馳走するくらいしかできそうにないのが、申し訳ないけど。あ、それか、後日お礼の品を宿に送る感じでもいいかなあ。エルさん、どこに行くんだろう?)

 行き先を聞いていないことに気付いた時、エルが「じゃあ」と意味ありげに微笑んだ。

「ひとつ提案があるんやけど」
「? なんですか?」
「俺と一緒に、ビビアナ半島に行かへん?」

 思いもよらない提案に、メイは息を止めた。

 ビビアナ半島は、魔王を討ち果たした褒美として、勇者が王より賜った島だ。
 元々人間界に設けられた五つの『白百合の扉』のうち一つが位置しており、かつては島全体が天使をもてなすための場として賑わいをみせていたという。しかし天使狩りを機に、勇者は教会だけでなく天使に関する全てのもの、そして天使を信仰していた者たちを排除した。

 ただひとつ。今なお残る『白百合の扉』だけが、天使を彷彿とさせるものだろう。
 取り壊したところで創造主が再構築するだけなのかもしれないが、万が一天使が『扉』から現れたときに生け捕りにするためにそのまま残しているに違いない。勇者城の兵士たちが常駐しているという噂が、何よりの証拠だ。

「……どうして、ビビアナ半島なんですか?」

 いずれ訪れることは決まっているが、それは今じゃない。メイは平静を装って尋ねた。

「ちょうど勇者の生誕祭期間らしいんや。あちこちからぎょうさん人が集まってるやろうから、記憶の手がかりも見つかるんちゃうかなって。……だけど、ただ行くだけなんてつまらんやろ? どうせなら、メイちゃんと一緒がいい思うとったんや。デートにぴったりやん?」

(……人がたくさん……。もしかしたら、ジュジュさんのことを知っている人がいるかもしれない!)

「行きますっ!」 
「!? ほんまに!?」

(はっ!)

 つい前のめりで答えてしまったが、エルと一緒に行くのはまずい。万が一正体が露見するようなことがあった場合、間違いなく巻き込んでしまう。

「すみません! 今のは……」
「ここで待っとってや! 舟券買うてくるわ!」
「え!? あ、ちょっと! エルさんっ!?」

 慌てて駆け出したものの、足の遅いメイが大はしゃぎのエルに追いつけるはずもなく……。

「あ、お代は俺がもつから気にせんといてな。いやあ、楽しみやなあ~。二人で初めての旅行!」

 今、エルは目の前で舟券をひらひらさせている。鼻唄交じりだ。とてもじゃないが、払い戻してきてくださいとは言えない雰囲気である。

(わたしはジュジュさんを探すために、ビビアナ半島に行きたい。旅行を楽しむためじゃないし、エルさんにも、わたしのことは気にせず記憶探しに集中してもらいたい)

 一緒に船に乗って半島に渡るぶんには構わないけれど、そこから先は別行動だ。そうすれば、いざというとき彼を危険にさらすことはないだろう。

(……よし。わかってもらえるように、ちゃんと説明を……)

 意気込んで身を乗り出した時だ。「それはそうと」とエルが口を開いた。

「どうして、一緒に行ってくれることにしたん?」
「え」
「まさか、俺とデートしたいわけちゃうやろ? 何が目的があるんちゃうかなって思ったんやけど」

 てっきり『脈あり』だと勘違いされたものだとと思っていたため、少々面食らう。エルには、思っていたよりも冷静な一面があるらしい。
 メイは少しだけほっとしながら、口を開いた。

「人を探しているんです。さっき、半島には今たくさん人が集まっているって教えていただいたとき、もしかしたら手がかりが見つかるかもって思って。それで……」

 問題ない程度に事情を明かしておいたほうが今後のためにいいだろうと思ったのだが、メイはこういった説明があまり得意ではない。
 ここ数年その人を探して点々と旅しており、ネリネ村を出たのもそのためなのだ――とざっくばらんに話したが、うまく伝わっただろうか。

「……なるほどな……」

 静かに耳を傾けてくれていたエルが、やがて深刻な声音で呟いた。
 かと思うと、急にメイの手を強く握った。舟券がぐしゃっと音を立てて、二人の手のひらの間でつぶれる。

「なんで教えてくれへんのや! 水臭いやないか!」
「え?」
「俺が一緒に探したる!」

 予想外の発言に、メイはぽかんと口を開けた。手を離したかと思うと、エルは得意げに腰に手を当てて胸を張る。

「お兄ちゃんに任せとき! すぐに見つけたるわ」

 しかもグッと親指を立てて、にかっと笑っている。

(気持ちは、すごくありがたいけど……)

 メイは深く息を吸い込むと、いつもより固い声を出した。

「お気持ちだけ頂戴します。エルさんには記憶を取り戻すっていう大切な目的があるんですから、そちらを優先してください。自分の船代はお支払いしますから、ここから先は別行動にしましょう」

 沈黙が落ちる。さほど間を置かずに返ってきたのは、訝しげな声だった。

「どうせ探しモンするなら、一つでも二つでも変わらへんやろ? それに、女の一人旅は危ないで? またあのおっさんみたいな変態に絡まれたらどうするんや」
「心配ありません。今後は、きちんと気をつけますから」

 思い出すと情けなく震えてしまいそうなくらい、本当は不安でいっぱいだ。しかし、ここで甘えるわけにはいかない。
 色々な想いを込めてじっと見上げると、エルは開きかけていた唇を閉ざした。
 そして、ぽつりと呟く。

「俺は、君の傍にいたいんや」

 真剣な声音に、心臓がどきんと跳ねた。

(だ……だめだめ。流されちゃ)

 思わず顔を伏せたメイは、きゅっと拳を握ってエルを見上げ直した。淡々とした、冷たい声を出さなければと意識する。

「正直に言うと、どうしてそんなに好いてくれるのかわからないんです」
「俺を助けてくれたやろ? 目が覚めた時、この子が俺の探し求めてた天使やって――」
「天使なんかじゃありません!」

 エルが息を呑む。

「わたしが探しているのは……そう、心に決めた人なんです。なので、気持ちにお応えすることはできません。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」

 嘘をついた。
 エルの顔を見られないまま、メイは彼が手にしていた自分の荷物と舟券を奪い取るようにすると、空いた手に無理矢理硬貨を握らせる。そして、船へと続く桟橋の上を足早に進み始めた。

(ごめんなさい)

 心の中で何度も謝り、息もつかずに船へと乗り込む。そのままずんずん大股で進み、思いのほか広い船内の一番奥の席に腰を下ろした。ちらりと窓の外を見ると、もうそこにエルの姿はない。

 船内が徐々に賑わい出す。
 自分の周りの空気だけが物寂しい気がして、メイはそれを振り払うようにして荷物を解いた。中から、店長からもらった包みを取り出す。

 汽笛が鳴った。出航の合図だ。

 遠ざかる港を見ながら、メイはネリネ村で過ごした日々をあらためて思い返した。

(さようなら。本当に、ありがとうございました)

 店長に、常連客や村のみんなに――エルに、心の中で深く頭を下げる。
 愛情が込められたサンドウィッチを頬張ると、少しだけ塩辛い味がした。



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