飴屋法水『彼の娘』

間違ってしまったことを、後悔はしてない。でも、間違ってるから、もうやめようと思ったんだ。

 彼は、そう言って、ナマケモノの赤ちゃんを新聞紙でくるみ、冷凍庫に戻した。
 こげ茶色の剛毛の塊は、彼が死ぬまでそこにあるのだろう。

全部、やめることはないよ。間違うことを、全部やめることは、お父さんにはできない。それは、とても息苦しい。少しは、いつでも、間違っていたい。だからほら、またナメクジつかまえて飼っちゃった。でも限度があるんだ。間違うにもね、ほどがある。だからお父さんは、もう、動物を売るのはやめたんだ。店はやめたんだ。

 確かに、部屋の隅にはプラケがあって、そこにはナメクジが一匹入っていた。
 ナメクジは、彼がスーパーで買った、エリンギを食べていた。
 小さな間違いが、そこにはあった。

それで、お父さんは、今は、楽しい?
うん、楽しい。すごく楽しい。
そっか、なら、よかったよ。

 彼は、そう思っていた。
 彼女が生まれてからのこの日々を、楽しいと。
 それ以上でも以下でもない。(P115-116)
 痛みの記憶と並んで、覚えていることの、そのほとんどは動物のこと。
 一番覚えているのは、亀が死んだこと。死んだ、というより、死なせた、もっと言ってしまえば、殺してしまったようなこと。
 よく晴れた日だった。日曜日だった。家族でデパートに出かけることになった。彼は、飼っていた亀に、日光浴をさせていた。出かけるというので、亀を、よく陽のあたる床の上に、しかし逃げないように、甲羅をひもで縛り、そこから犬のリードのように紐を伸ばして、椅子の脚に結んだ。そうして家を出た。
 デパートから帰ると、亀は死んでいた。直射日光から逃れようと、日陰の方に、紐をピーンと張った形で、亀は乾いて死んでいた。失敗だった。彼のイメージは、間違っていたのだ。

 それから、彼は、その乾いた亀を持って、近所の川に向かった。彼はなぜか、地面に埋めることを考えなかった。川に流そうと思ったのだ。理由は覚えていないが、どうせたいした理由でもないだろう。ただ、川の水面に亀が浮かんで、下流に向かって流れていく、それが彼の考えた、亀の葬式のつもりだった。
 水面に亀を手で差し出し、浮かべるつもりで手を放した。亀は、いきなりブクブクと沈んで、あっと言う間に見えなくなった。彼は、家に帰って、しばらくの間、泣いた。死んだから泣いたというより、それは自分の思い通りに行かなかったことに対する、ショックのような、身勝手な傷つきのような、そういう涙だったように思う。
 彼は、彼の描いた稚拙なイメージは、こうして続けて裏切られた。今でもこうして、鮮明に覚えているように、この、イメージが裏切られたという感触は強いものだった。
 以来、彼はイメージを持つことを、やめた。いや、やめることなど簡単にはできないが、少なくとも、自分が抱くイメージというものを、ひどく警戒するようになった。イメージを描くことの楽しさよりも、ただの現実を知ることの方に、彼は最大の関心を向けるようになった。

 そうなのだと思う。
 彼が、彼の娘に対しても、ほぼ、なんのイメージも持たず、なんの期待も持たずに過ごしていられるのは、この日、亀が沈んだからなのだと、彼は、そう考えている。
 動物は、彼にイメージを許さなかった。たえず未知であり続けた。それは彼にとって、この上ない楽しさだった。(P128-131)
 そう。例えば皆がプードルといって思い浮かべるプードルの姿は、体の毛を、独特の、あのプードルの形に刈り込んだ姿だ。もしもプードルの毛を刈らずに放置したら、その犬を、誰もプードルだとは思わないかもしれない。プードルの形に、毛を刈った犬だけが、プードルなのだ。ライオンやキリンの姿と、そこが違う。

 そして人間は知らないのだ。もしも髪を切らなかったら、もしも髭をそらなかったら、その時、自分がどんな姿をしているのか。おそらく誰も知らないのだ。
 ライオンのようにシマウマのようにサイのようにキリンのように、人間という種類の姿を、動物としての自分の姿を、描くことは、誰にもできない。(P142)
 しかし、彼女は、その生涯の最初の何年間か、絶えず裸足で外を歩いた。アスファルトの上を、裸足で歩いた。靴を履くことを好まなかった。彼女が自分でそうしたい限り、彼は止めることはしなかった。ただ、彼女の歩く先の地面の様子や、彼女の歩みのその様を、ひたすら見続けるということだけをした。
 彼がいくら注意深くそれをしているつもりでも、道行く人が、心配になって忠言してくることも再三だった。大丈夫ですか? 危ないですよ。道路にはガラスが落ちてたりしますよ。怪我しますよ。

 時には、それが喧嘩のようなものにさえ発展する。なぜ裸足を放って置くのか。なぜちゃんと靴を履かせないのか。あなたは自分の子供が可愛くないのか。
 いや、争う気など毛頭ないのだが、可愛くないのか? とまで言われれば、さすがにこちらもカチンと来る。そして何より、そんな風に、自身のものさしが絶対に正しいと思い込み、他人が真剣にやってることに平気で口出しをするような、そんな人にさえならなければ、あとはまあ、どうでもいいような気さえする、と喧嘩になりかけるたびに彼は思った。

 歩き始めて、およそ三年間。都会の道路をいつも裸足で歩き、しかし彼女の足裏は、一度も怪我をすることはなかった。彼女の体重が、まだ靴を必要とはしてなかったのかもしれない。動物と人間の、その中間のような時間、三年間は、そんな時間だったのかもしれない。(P147-148)
 好き嫌いなく食べなさい。
 彼は、それも彼女に向かって言うことができないでいる。なぜ、あらゆるものを食べなければいけないのか、彼にはまったくわからなかった。納豆を不気味だ、という人がいるのはよくわかるし、外国の人が生魚を食べれないという話もよく聞く。タコは悪魔にしか見えないとか、そういう人に向かっても言うのだろうか? 好き嫌いなく食べなさい。
 ベジタリアンの人もいる。それでもやはり言うのだろうか。好き嫌いはいけません。なんでも食べなくてはいけません。残さず食べなくてはいけません。
 学校というところが、いまだにそんなことを子供に向かって言っているのであれば、そんなところに行きたくないと、彼の娘が思うことを、正すことなどできそうもない。(P170)
 彼女がもっと小さな頃だ。彼女はよく、高いところに登った。食卓の椅子に座らせると、椅子からテーブルの上にすぐあがる。四つん這いで、テーブルの上をハイハイする。踏み台があれば踏み台に。脚立があれば脚立に登る。一番驚いたのは、垂直に立ってる本棚を、天井近くまで登ったことだ。大人には、垂直を登るという発想はない。どう考えても、途中で落ちるとしか思えない。しかし彼女は登っていく。猿のようだった。猫のようだった。嘘のようだった。夢のようだった。
 そういう時、彼はどうしても止められない。危ないから、やめた方がいいことなのだと教えることが、できなかった。知りたいと思ってしまう。彼女が落ちないで登れるものか、彼はまず知りたいと思ってしまう。
 それは放任主義とも少し違う。知らん顔をして放置するわけではない。落ちやしない、と思っているわけではないのだ。落ちるかもしれないとは思っている。しかし、落ちないかもとも思っている。つまり、それはどちらもあり得ることで、彼にはただ、わからないことだったのだ。だから彼は、その場を離れるわけではない。止めないだけだ。そしてじっと見続ける。
 結果を言えば、垂直の本棚からは落ちなかった。脚立から落ちたこともない。食卓の、テーブルの上からは、一度だけ床に落ちた。その後は、二度と落ちることはなかった。その一回に、学ぶものがあったのだろう。

人にはね、失敗する権利があると思うんだよ。
権利? 権利ってどういうこと?
うーん、その人が、それをする、という自由を決して奪ってはいけないって、いうようなことかなあ。
失敗をする、自由ってこと?
そう、くんちゃんには、それをして、失敗する自由がある。その権利があるんだ。だからお父さんは、その権利をくんちゃんから奪ってはいけない。
えー、お父さんは、くんちゃんに成功してほしくないの?
や、成功してほしいさ。でも、それはまあ、成功してほしいという、んー、願い? みたいなことでさ。願いがあるからってさあ、くんちゃんが必ず成功しなくちゃいけないわけじゃあないんだよ。
あ、そうか。
くんちゃんにはね、何かをして、成功する権利がある。でも、失敗する権利も同じくらいある。だから、お父さんがいくら願ったとしても、いや、願うのはお父さんの勝手なんだけどね、お父さんには、願う、権利があるわけだけど、でもどんなにそれを願ったとしても、強く、強く願ったとしても、くんちゃんから失敗する権利を奪ってはいけない。それはくんちゃんが、自分で決めることなんだ。(P177-179)
中学出てね、働いてね、それでキャンディ屋さんが開けたらね。どういう飴を売るかとか、お店の中を、どんな風にするかとか、そういうことを全部自分で考える。棚とか、壁とか、自分で色を塗ったりさ。くんちゃん楽しいと思うんだ、すごく。

 そうだね。それは楽しそうだね、と彼は答えた。

 彼女のその考えが、その計画が、正しいことか、正しくないことか。今だから、そう言ってるだけのことなのか。

 なにひとつ、「予想」を交えることは、しまいと思った。
 それは、彼女に対する礼儀だと思った。(P190-191)
だからね、お父さんが死んだとしても、それはたいしたことじゃないんだよ。ぜんぜんたいしたことじゃあない。ケロちゃんが死んだ程度のことなんだ。その時は、そう感じないかもしれないけど。でも、それがこの世界の本当だ。お父さんは、そう思う。それでこのお父さんの考えは、お父さんを、楽しくする。
楽しいの?
うん楽しい。自分が間違ってふくらんでしまって、どこかで七十億分の一じゃあ足りなくなって、その足りないことに苦しんだり、お父さんにはそれが少ない。まるで、ただの動物みたいに、とても軽い。
軽いのか。
うん。まあ、感情はたっぷりあるけどね。
人間だからね。
そう。仕方がない、人間だから。(P218-219)

とても、とてもよかった。

深夜に読み終えたあと、家にあった同じ著者の『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』を読み返したくなった。その文庫本はすぐに見つかったが、3年前に引っ越してきたときのまま、何冊かの文庫と一緒くたにビニールひもでくくられた状態になっていた。

タイトルどおりの珍獣飼育ハウツー本的側面も持つその本を全部は読んでいないが、後半部を読んだときのショックのようなものだけはずっと覚えていた。

 当時、自分たちのしたことが、どのくらい間違っていたか、それは今でも、よくわからない。ただ、この経験は、私の中で大きな学びとなっている。自由というものについて。幸福や不幸という、考え方について。命というものの徹底的な軽さと、無意味。限りない重さと、大きな意味について。
 思い起こせば子供の頃から、私はそうやって動物から学び続けてきた。映画でも雑誌でもなく、発情して鳴くコオロギから恋愛を学んだ。卵から孵化する無数のカマキリやオタマジャクシ、水槽で死んでいく魚やカメを通して、生の瞬間と死の瞬間を見た。
 これを書いている今、私とパートナーの住む家には子供がいる。
 フクロウではない。人間の子供である。生後一年に満たない人間の女の子。室内のたった六十センチの水槽の中には、二匹の金魚が泳いでいる。
 なんとまっとうな、珍しさのかけらもない、ありふれた光景であろうか。しかし僕にとって、これは多くの動物から学び、ようやく到達できた光景なのだ。
 僕がしてきた数々の飼育は、どれひとつ正しくは、なかったろう。間違いの連続だったろう。どこか狂っていたとも言えるだろう。そんな私も、これでようやく、人としてまっとうな、正しい家族計画に行き着いたということなのだろうか?
 しかし、社会通念ってやつをはずした目で見てみよう。フナを改良して金魚を作るのは、狂ったことではないのだろうか? 無数の他生物を、動物実験に使用した果てに手にした医学にすがり、わが子の命を守り続ける僕らは、狂った動物ではないのだろうか? いや、間違いなく、発狂しているのである。
 しかし、狂うにも限度というものがある。僕にいえるのは、そのことだけだ。正しい、ではない。ただただ、これ以上は行き過ぎではないか、ヤバイのではないか、と気づく、精神の機能、のようなもの。
 それを見つけるには、その狂気の只中に身をおくしかない。自らの狂気を認め、手を汚すこと。その狂いの中に身をおくことでしか見つけられない、節度や品格、のようなもの。それが、「飼育」という、狂った行為から発掘できる、ゆいいつの鉱脈のようなものであると、私は、今でも、信じている。
 私の娘も、やがて金魚だけではあきたらず、きっとなにかを飼いだすだろう。それは池のミジンコだろうか? 道で拾った捨て猫だろうか? ペットショップの高額な犬を欲しがるのだろうか?
 どれも、ひとつも、正しくはない。それでも飼えばいい、と私は思う。飼って、飼って、飼いまくって……そうやって狂いながら、どうか見つけて欲しいと思うのだ。かろうじて節度と品格のある狂い方を。生き物として最低限の、まっとうなモラルというものを。
(飴屋法水『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』文春文庫PLUS版・文庫版あとがき P230-232)

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