親の介護と自分のケアの記録 その16

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。

この2年を振り返る

ここ最近、大きな不調を感じることもなく、わりと調子がいい。
絶好調!という感じでもなく、静かな調子のよさというか。

2021年の3月に母が脳梗塞で倒れてから、2年以上がたった。
少し余裕がある今、この2年間をざっと振り返ってみたい。


母が倒れたのが2021年の3月。
母が退院するまでの約4カ月間に、ゴミ屋敷同然だった実家の片付けに通いつつ、介護職員初任者研修の資格を取得した。

7月に母退院。
週2回ほど、母のサポートに実家に通う日々が始まった。

もともと折り合いの悪い母と週に2回も会うことは結構なストレスで、最初のうちは帰り道でずーんと疲れていた。
(そのころは、ストレスから無性にしょっぱくて歯ごたえのあるようなものが欲しくなった。普段は買わないベビースターラーメンを駅のコンビニで買い、結構混雑した電車の中でボリボリボリボリ食べ続けたことを妙に覚えている)

支援員のしごと

母が実家に戻ったのとほぼ同じタイミングで、近所にあった障害者支援施設でパートの支援員として働き始めた。

母の介護だけでもストレスフルな状況なのに、なぜかこのタイミングで新しい仕事を始めてしまう自分の行動がわれながら妙だったが、母の介護をするうえでのヒントが欲しい、みたいな考えが強かった。
また、もともとこういった世界には関心があったので、資格も取ったことだし思い切って働いてみようか、という思いもあった。

さまざまな困難を抱えた「利用者さん」たちに、はじめはただただ圧倒されるばかりだった。どう接していいのか分からず、身体的な介助の場面では過剰に体をこわばらせていた。
母の介護のストレスでキャパオーバーになっていたのか、自分でも驚くほど仕事の飲み込みが悪く、ほとんど役に立っていないことに落ち込むことも多かった。
(ただ居るだけのひと、みたいになっていたときに東畑開人の『居るのはつらいよ』を再読し、とても救われた)

が、結果的には、支援の仕事を始めたことは、自分にとって大きな助けになったと思っている。
始めてからもうすぐ2年。
最初のころに比べれば、少しは役に立てている…かな、と思う。
体のこわばりも解け、身体的な介助もだいぶなめらかに行えるようになった。
正直、モヤモヤすることも非常に多いが、学ぶこともたくさんある。
フルタイムで働く覚悟は私にはないが、パートという形でなら、これからもずっと携わっていきたいと思っている。
(パートで働いてみたいと思ったのは、立岩真也『介助の仕事』を読んだことが大きかった。立岩真也の周囲のひとたちの、なにか別のことをやりながら週の何回かは介助の仕事をする、という軽やかな感じがなんともいいなあと思ったのだった)

運転できるようになった!

母の介護が始まったとき、車の運転練習にも力を入れていた。
免許を取得したのは、35か6の時。
教習は毎回怖くて、どうにか免許は取れたものの運転は向いてないのかも…と落ち込んだ。
さらに、免許取得直後に妊娠し、運転練習をすっかりしなくなったまま数年が過ぎた。
が、母の通院などで運転できたほうが何かと便利だと思い、数年ぶりに練習再開。
初めはバックミラーに他の車が映るだけで怖かったので、夜明けとともに練習を始めていた。
習慣化アプリの中の「ペーパードライバー卒業の会」みたいなのに入り、練習するたびにそこで報告した。
夜明け直後の本当に車が少ないときにしか運転できなかったのが、次第に朝6時台でも乗れるようになり、夜も乗れるようになり、アプリでの報告が100回に達したとき、高速道路を使って実家まで行けるようになっていた。
駐車や狭い道はいまだに怖いし、決して運転がうまいとは言えないが、普通に運転できるようになったことが、私にとっては快挙だ。

セルフケア

また、偶然にも母が倒れた数日前からカウンセリングに通い始めており、カウンセリングにはものすごく助けられた。
通い始めたときに強かった焦燥感や切迫感がだいぶ薄れてきたので、はじめは毎月通っていたのを今は隔月にしている。
定期的に、その間に起きたことや感情を振り返れる場を持てることは、とてもいい。

直近のカウンセリングでは、これまでで一番なめらかに話せた気がする。
これまでは親に関わることを話すことがほとんどだったが、先日は、その日の朝に起きたできごとと絡め、怒りの表出がとても下手だと自覚していることを、子どもとの関わりも含めて話すことができた。
それまでのカウンセリングで話してきたことと少し質が変わったような気がしていて、小さな進歩を感じている。

私の通うカウンセリングルームでは、カウンセリング内容の録音が推奨されており(ほかのところではどうなのだろう)、毎回録音し、かなり何度も聞いている。
話している時には苦しく感じていた場面でも、あとで聞く立場となってみると全く違う感覚が生じることが多く、それが面白いし、聞いていてなんだか心地がいい。これは意外だった。

カウンセリングには、いつも母のところに行ったあとに行っている。
「今日は用事があって、いつもより少し早めに帰るから」と言う私に、母は「どこに行くの? 仕事?」と聞いてくるが、いつもあいまいにごまかしている。
「あなたとの関係に苦しんで、カウンセリングに通っている」とは、まだ言えない。
いつか言える日がくるだろうか。

去年の終わりごろからは隔月で整体にも通い始め、最近は、ヨガとマインドフルネスのオンラインレッスンも受け始めた。
運よく自分に合ったものが見つかり、ほくほくしている。
盤石なセルフケア体制が整ってきた。

カウンセリングでも、整体でも、ヨガでも、マインドフルネスでも、何か感情が起こったときに体に生じる感覚を観察し、それを否定せず、ただそこにあるということをじっと見つめる、ということをたびたび教わってきた。
最近、それが腑に落ちてきている。

母の部屋で何か手伝いをしているとき、私は結構な頻度で暴言を吐きたくなり、またそれを抑えきれずに暴言を吐いてしまうことがたびたびだった。
(母の部屋はKのものであふれ返っており、私にとってはとてもストレスフルな空間だ)
暴言を吐いてしまったときも、そのときに起こる体の感覚を意識する、ということを試みてはいた。しかし、暴言が吐き出されるスピードに負けてしまうことが多かった。

それが、このごろは暴言を吐く前に、体の中のモヤモヤ(背中からみぞおちにかけて生じることが多い)を捉え、それを押さえ込むのではなく、「あるねえ、あるねえ、かなりモヤモヤしてるねえ」みたいな感じで、そこにあることを認める、ということを、かなりスムーズにできるようになってきた。すると、モヤモヤはすぐには消えないけれども、氷がじわじわと溶けていくように、ゆっくりと消失していく感覚がある。
そんなわけで、ここ最近は母に対して暴言を吐くことが減ってきた。
いい傾向。

「宗教2世」

また、昨年の夏に起きた安倍晋三銃撃事件によって、「宗教2世」の問題が広く語られるようになったことも、当事者の1人として、とても大きなことだった。

カウンセリングでも以前からそのことには少し触れていたが、改めてしっかり取り扱うことができた。

そして、今年の3月にKの教祖が死んだ。
その死は私に解放感をもたらし、それまでずっと呪縛があったことにわれながら驚いた。

先日、意を決して「宗教2世」の自助会に参加した。
2回目に参加したときには、自分が選んでもいないことを「あなたが選んだことなのよ」と母に言われ続けたこと、Kへの強い違和感を表明しても、それを一切母に受容してもらえなかったことに強い怒りと絶望感を持ち続けていることを話した。
心の中にはずっとあったけれど、口に出したことはほとんどなかった。
それを人前で言えたこと、聞いてもらえたことに、深い充足感を覚えた。
そのあと、2人の方から受容的なコメントをもらい、内心ものすごくうれしかったのだが、「言えた! 聞いてもらえた!」ということで胸がいっぱいで、コメントに対して、小さく「ありがとうございます」と返すので精一杯だった。

図書館で借りて、ざざっと読んだ『宗教2世』(太田出版)。
当事者に対する大規模アンケートの集計結果がメインの本。
匿名の自由記述回答を記したページは読みごたえがあった。
以下の2つの引用は、すごくわかる、と思ったもの。
西田公昭さんの本も読んでみたい。

何かうまくいったことがあっても、祈り、またはおはらいのおかげにされるのが嫌だった。手柄は全部神様にもっていかれるんだな、と思いつつ、お母さんが喜ぶから、子どもながらに神様を信じている発言をしていた。お母さんを神様に取られた気分だった。
父親は何も言わずに放置していて、特にあつく信仰していることもなかった。どういう気持ちだったのか気になる。
母親はいまは別の宗教を信仰している。

『宗教2世』

私が悲しいのは、親が自分の言葉や思考でなく、宗教の教えを引用して私を叱ったり導こうとしてくることです。そうではなく、親自身の言葉や思考を、私の人生の折々に投げ掛けてほしかった。いまとなっては叶わないことですし、いつか母親に伝える日が来るかもわかりませんが。

『宗教2世』



今朝、吉川ひなのがエッセイの中で、両親との関係で非常に苦しんできたのを語っていることを知り、驚いた。
目に留まったネット記事にはエッセイの一部がかなり長く引用されており、それは胸を打つ文章だった。
岡崎京子の『ヘルタースケルター』を地でいくような。


同年代の吉川ひなののことは、10代のころ、結構好きだった。
雑誌『Olive』の表紙を飾った、シンプルなワンピースをまとい、足を大きく広げてすっと立ったひなのちゃんがまっすぐにこちらを見つめている写真をよく覚えている。
写真集『ひなのがぴょんぴょん』(撮影は篠山紀信)も持っていて、よく眺めていた。

吉川ひなのが活躍していたのは、私が高校生のころ。
母はKにはまり、父はこのころからうつ病を患い始めたと思う。
私は恋愛に夢中で、なんだかいつもぐったりと疲れていた。
散らかった自室で、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を読みながらCharaのアルバム『Sweet』をずっと聴いていた(Break These Chainがすごく好きだった)、というのをなぜかよく覚えている。

子どものころの記憶が、なんだか変だ。
記憶喪失、というのではないが、記憶が断片的で、それぞれがつながらない感じ。
過去に何度か、アンケート的な感じで「子どものころの楽しかった思い出を教えて」と聞かれたことがあったが、そのたびに硬直してしまうというか、本当に何も出てこないことに驚いていた。
そしていつも、大人になってからのほうが、子どものころよりもよっぽどたのしくて楽だ、と思ってしまう。

でも、今なら過去を少しずつ整理してつなぎ直せるような気がしている。
セルフケアを怠らず、少しずつ取り組んでいこう。
東畑開人のオンライン講座「心のケア入門」を受講していて、先日その第1回目があった。
「ケアとセラピーなら、まずケアが先。そのあとにセラピーがくる。ケアがないところにセラピーをやろうとしても、それは暴力になってしまう」と言っていたことを深く胸に刻みたい。
自分に対しても、子育てのうえでも、親との関わりにおいても、指針になる言葉だと思う。


先日、川上未映子『夏物語』を読み終えた。
子どもが生まれてから小説をほとんど読めなくなっていたので、500ページを超える長篇を読めたことがまずうれしかった。
100ページを超えたぐらいから、登場人物たちが頭の中で動き始めた。
この感覚は久々だ。
夏子、巻子、緑子(みどりこ、と読んでいたが、みどりこ、でいいんだろうか)、逢沢さん、紺野さん、善百合子。
夏子がかつてのバイト仲間の紺野さんと飲む場面、精子提供者の恩田と喫茶店で会う場面(気持ち悪い描写が秀逸だった)、善百合子と話す場面が特に印象深い。
ラストはどこか投げやりな感じがして、なんとなく、ラストはどうでもいいんじゃないかと思った。
読み終わるのが惜しいというか、ずっと読んでいたいような心地よさがあった。

あと、小説ではないけれど、今読んでいる『いなくなっていない父』(金川晋吾)がものすごく面白い。
植本一子の『愛は時間がかかる』が読みたくて、新刊だしすぐに見つかるだろうと本屋を回ったが意外に見つからず、3軒目でようやく見つけたときに近くにあり、少し迷ったけれど、気になってついでに買った本。
とても平易な言葉で書かれているが、何かすごいことが書いてある感じがあり、じっくりゆっくり読んでいる。

映画もいろいろ観られるようになってきた。

少し前に観た『すべてうまくいきますように』(フランソワ・オゾン)は、体が不自由になって死にたがっている父を看取る娘の話。
ハンナ・シグラとシャーロット・ランプリングの姿が見られるだけで、もううれしかった。
ヒロインのソフィー・マルソーが、一人で街を歩いたり、泳いだり、ジムで運動したりするシーンがちょこちょこ挟み込まれて、それがよかった。
「ケアに携わる人間にとって、こういう時間は絶対に必要なんだよな。よくわかってる!」と思う。

フランスの障害者施設を取材したドキュメンタリー、『アマダン号に乗って』(ニコラ・フィリベール)もよかった。
「利用者さん」たちの歌がどれもすばらしく、歌のシーンだけでももう一度観たい。
観た直後、『今朝の秋』という大好きなドラマを再見したくなり、家で観た。
最晩年の笠智衆、杉村春子、杉浦直樹、倍賞美津子、樹木希林。
脚本は山田太一。
終盤、家族の思い出を語るうちに、杉浦直樹が「恋の季節」を口ずさみ、倍賞美津子がそれにのっかり、笠智衆も調子っぱずれに歌いだす、というシーンがあり、初めて観たときにいたく感動した。
歌つながりということで、観たくなったのだろうか。

スコリモフスキの『EO』も観られた。ロバはいつまでもみていられる。
阪本順治の『せかいのおきく』、荻上直子の『波紋』、フランソワ・オゾンの『苦い涙』も観たい。

とりとめなくダラダラと書いてしまったが、いろいろ吐き出せてすっきりした。


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