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2024.2.8 山月記の虎

 山月記の虎にだけはならないように気をつけてきたつもりだった。自分の才能の有り無しを努めて客観的に判断してきたつもりだった。できることは堂々と。できないことは謙虚に。そうしてるつもりではいたのだ。

 だけどその判断自体、自尊心の膨れ上がりによる盛大な勘違いバイアスがそもそもかかっていたとしたら。今、自分なりに「大人」に成長してきている段階で、自分の劣っているところ、足りないところ、イタイところの解像度が上がってしまって、早く諦めて楽になりたい気持ちと、虎になることを未だに受け入れられず右往左往する自分とで…しかも「大人」特有の"いざこざ"にも初めて対峙することになり、月並みな無力さに苛まれているような日々だ。

 「これまで何もできていなかったのでは…」

 ということを疑い始めてしまうと、

 あぁ。美しく作れたあの曲も、恵まれた友人関係も、何だかんだ貧しい思いをせずに来れたことも──

 全部実力じゃなくてただの運だったのか、と。

 以降、毎日毎日それを気付かされる辱めばかりで、おまけに自分にとっての世の中とは不和、気怠さの象徴であって、きっといつか仲良くできると思ってた世間とも、相変わらず気が合わない時間を過ごしてる。

 裏方がいいとか、パンデミックだからとか、言っててもそれは逃げの口上でしょ。歌いながら作品作ってる頃だって、きっと俺ってもしかして「ぜんぜん才能ないのでは…」と勘づき始めてた。多分…ね。
 いやぁイタイ。客がいようがいまいが、ビデオライブだろうがYouTubeだろうが、できることだけでも続けずに引きこもってしまったのは、多分努力してそれが判明することを避けて、不戦敗の形をとることで体裁を保持しようとしたんだろう。でも周りはやさしいから、俺にどんな形でも音楽を続けさせようとしてくれてたのかもね。
 だから一応は首の皮一枚、やっているけど。解決できるか不透明な問題を抱えたまま、やっているけど…

 でもね、騙し騙し生きてきたけど、これ以上自分の体力に自信がないんだよ。だから、これまで当たり前だったことをひっくり返して考えるようにしてる。例えば酒も…幼い頃からそんな環境が身近だったから、しかしこれまでと比べて驚くほどそんな機会が減っているのは、大人の社交にそれは本当に必要なのか、なんて疑い始めてるから。身体のメンテナンスや栄養学、トレーニングであるとか、さしてその場で大きくは好転しないけど、おおよそロックンロール様に対して後ろ足で砂をかけている。そもそもどこかで思考プロセスを間違えてしまっているんだろう。それが祖父が死んで顕著になったというだけで。

 ただしそれもアドラー心理学で言わせれば、後付けの理由、都合の良いエクスキューズに過ぎない。いずれにせよ、たった34歳でこんなことで、平均あと50年も根性と気合いで乗り切れる自信はないし。もしも駄目だったら次の手はどうするの、俺。

 つまりここ。虎になる覚悟はできていない。人間に戻る体力も不安。飛び込み台の上でしゃがんでる状態で、惰性でこれまで通りマゾヒストのように生きている。少しずつ「大人」になって、やりたいことが自由にいくらでもできると期待してた。運良く生きてきた分、今になって全部ツケが回ってきた。それは言い換えれば、全然真逆なことだって起こり得る、という想像力を養うことを怠ってきたということ。

 あと一歩。光より速いことが有り得ないように、運を否定するわけにもいかない。それならば虎になっても、虎を受け入れることも手なんだと思える。
 青臭い自分の片側は、この世が嘘である期待はもうしたくないと言っているが、それはこれまでほとんどの場面で考えてあげられてなかったから。どこかまだ自分を期待してる自分は、邪魔で愛おしい。

ここではお好きに。