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2023.12.07 決まりごと。

思考の極地にいる時、例えば髪を束ねるタオルが外れたり、例えば掛けてるハンガーからコートが落ちたり、例えばカーテンがめくれ室内に日差しが入り込んでたり。
たったその程度のことで、たったその程度の事に邪魔される一瞬がとても憎くなる。

そういう瞬間的な絶望という切り抜きに対して客観性は通用しないし、かといって主観でそれを捉えては判断を常に誤るリスクがつきまとうという事。

語弊を恐れずに言うならば、事を起こす時の理由のいくつかはここに集約される。
それは普段のふとした日常の断片かもしれないし、あるいはアルコールによる残念な形での作用かもしれない。

何も日常的に鬱屈した日々を送らなくても、白を黒と感じるような精神錯覚は起こせる。
むしろ断続的な一瞬にこそ、そういう覚えがあるはずだ。
言葉の裾野を拡げて言うなら、その急な錯覚に対しての免疫がないことに尽きる。

当然、連続的なうんざりとする日々は十分な増幅装置にはなり得るし、または他者を破壊する場合に立派な動機になる。

そもそも動機とは整合性のとれるものではないし、人間の行動に上乗せされた理性というのは、決して本来の生存戦略に必ずしも適合できるものとは限らないはずなのだ。

今を生きる意味があるかどうか。
半歩後ろから見えた視界が少し解像度を下げてくれるのなら、結果的に悪意のような成分が入り込む隙間をそれが上手く閉じてくれるのなら、優生が最適解とは限らない。

しかしあくまで弱者は弱者であって、拙悪を否定する根拠にはならない。
強者が弱ぶる、弱者が強ぶる。
このどちらに対しての歪さすら否定し受け入れるのには時間が掛かることが、結局はマクロな成熟と成長速度の反比例を証明する。

つまり、結局三次元では孤独としか表現できない程度の、互いの不理解度を、一人で受け入れる姿勢が幸せの近似値となる。
そこにしか救いはない。覚えておいた方がいい。

ここではお好きに。