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論語読みの論語知らずの誹りを免れるには。 〜仁遠からんや。我、仁を欲すれば、斯に仁至る〜

私が論語を勉強したいなぁと思い始めたのはかれこれ15年位前まで遡ります。その当時、事業を行うにはまずその目的を明確にする必要があるのだと気づき、理念経営について学ぶ勉強会に参加しておりました。毎月足繁く大阪の会場まで通っていた頃、教材にしていた雑誌に毎回、仮名論語の著者として有名な伊與田先生が書かれた論語の一文が解説と共に掲載されており、t当時の私は孔子の人物像や時代背景など全く知らない不勉強ではありましたが、伊與田先生の文章が胸に響くことが多くあり、興味を持ち始めました。

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難解な論語の学び方

そんな流れで書店に行って論語の本を数冊買って読んだのですが、漢文で書かれた文章はやはり難解で、日本語訳も直訳に近い形の現代語訳は非常になじみにくく一応、数冊読了はしましたが、2500年の時を超えて受け継がれてきた真理がそこに書いてあるとはどうも思えないというか、心を震わせることもなく、どうもピンと来ませんでした。その後、論語からすっかり離れてしまっていたのですが、ある人から「次郎物語」の作者である下村 湖人の「論語物語」を読むとストーリー仕立てになっていて非常に論語の世界観がイメージしやすく、理解が深まると、読むように勧められました。早速読んでみると、孔子と弟子たちが物語の中で生き生きと躍動しており、そのエピソードの一つ一つが論語に描かれた言葉や概念を指し示していました。もちろん、それらが史実に基づいた物語では無いのでしょうが、孔子が生きた時代背景や思考のバックボーンをイメージすることで論語に対する理解が一気に深まりました。昨年は岡山の閑谷学校に年始の論語素読会に参加したこともあり、1年を通して毎朝声を出して論語を読む素読を行いました。江戸時代の寺子屋に通う子供の様に論語の一節を読む度に論語物語に書かれたエピソードやシーンが思い浮かび、随分と理解が進んだように感じました。

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「深く知る」とは咀嚼してアウトプットすること

学びは実践に落とし込んで初めて価値となる、机上の空論をいくら頭に詰め込んだところで何の意味もないのは誰もが知るところです。2500年もの長い歴史の荒波を乗り越え、今に受け継がれてきた論語にしても、その本当の意味を知り、日々の行動に落とし込んでこそ意味や価値があるといえます。昨年1年間、私は論語の素読に取り組みましたが、声に出して文章読むだけでそこに込められた深い意味や孔子の意図まで汲み取る事は到底出来ませんでした。概念を知る基礎的な学びとしては悪くはないと思いますが、やはり一つ一つの言葉の意味を深く考察し、自分事に置き換えて考え、実際の行動や日常の判断に反映させることが必要です。それが出来なければ、いわゆる論語読みの論語知らずと嘲られることになります。先日参加した実践人の家の研修会で安岡定子さんによる論語の解説を聞いて改めてそれを強く感じましたし、論語の言葉が腹落ちしていないのは自分の理解の浅はかさだと大いに反省した次第です。

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仁遠からんや。
我、仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。

世の中が乱れ、先行きが不透明な混迷の時代こそ原理原則に立ち返るべきと言われます。VUCA(不安定、不透明、複雑、曖昧)化が進む今こそ、古典中の古典である論語の学びが必要だと考えて、ポツポツとではありますが安岡定子さんの論語の解説を参考にしながら、私なりの考察を加えつつ、孔子の残した言葉の解釈や解説をこのノートにも書き残していきたいと思います。今回は講師が人が生きていく上で最も重要視するべきだと言われた「仁」について紐解いてみます。

仁遠からんや。
我、仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。

現代語に直訳すると、仁というものは遠い存在だろうか?
いや、私たちがそれを求めるならば、それはすぐにでもここにやって来る。となります。もう少し詳しく見てみると、まず孔子が最も重要だと言われた「仁」の定義を明確にする必要があります。webで引いてみると、

主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつ。また仁と義を合わせて、「仁義」と呼ぶ。古代から近代に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきた。中国の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方である。

孔子
儒学を大成した孔子は君子は仁者であるべきと説いた。
孟子
性善説に立つ孟子は惻隠(そくいん)の心が仁の端(はじめ)であると説いた(四端説)。惻隠の心とは同情心のことであり、赤ん坊が井戸に落ちようとしているとき、それを見た人が無意識に赤ん坊を助けようと思う心であると説いた。
出典:ウィキペディアより抜粋

孔子の教えの根幹は君子(= 良き人物)が良い組織を作り、よき社会を作る。君子が世に増えれば自ずと世界は良くなるとの、状態を整えれば成果に結びつく原理原則論です。そして、君子になるのに最も重要なのは仁を備えることであり、それは誰にでも生まれながらに備えている徳であるとの性善説です。以下に行ごとの解釈を丁寧にみてみます。

仁遠からんや

上述の仁(=親愛の情、優しさ)が遠くないとは、孔子が君子かくあるべきと行った仁者になるのは決して難しいものではないとの意味になります。私は、一般社団法人職人起業塾で職人をはじめとする建築実務者向けの研修を行なっておりまして、そこで最も大事にしている概念は、誰しもが必ず、類稀なる才能を持っていて、それを開花させていないだけで、自らが良いと思う事を行う主体性を持ち、行動に表すだけで圧倒的な付加価値を生み出すことができる。そして、その才能を開花させることこそ、建築事業で唯一無二の評価の対象である現場を良くすることが出来て、顧客満足を超える感動を生み出し、事業所の未来を作ることができるとのタレンティズム(才能主義)です。
このタレンティズムは弱肉強食の新自由主義色の強い強欲資本主義から人を大切にして誰も置き去りにしない持続可能な社会へのシフトの要請に答えるとされている共感型資本主義、ソーシャルエコノミーの世界で不可欠とされて最近大きく注目を浴びるようになっています。その源流は論語にあると言っても過言ではないと私は考えています。

我、仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。

論語が難解な理由の一つに、当たり前のことがシンプルに書かれていることだと私は思っています。当たり前のことが当たり前に行える、分かっている事がその通りに出来ている状態がキープされるべきですが、残念なことに、それが成立していないのがこの世の中で、それは孔子が生きた時代、日本では縄文時代から弥生時代へと移り変わる太古の時代から今まで、変わらず存在する人間社会のジレンマです。この行で示されているのは、仁は誰もが生まれながらに持っている資質でありますが、それを実生活で体現できている人の少なさを示唆しており、もう少し踏み込めば、欲する(意識する)ことさえしない人がほとんどであるとの事実です。吉田松陰先生は「志を以って万事の源と為す」と言われましたが、自分だけ、身内だけの狭い了見で考えるのではなく、もっと広く人の為、地域の為、業界の為、社会の為に良くなることをしたいと欲することで、全ての源になるし、それが無ければ人生は意味を為さないと強く訴えられています。即ち、仁を欲するとはまず、意識を変えることであり、誰しもが持っている人に対する思いやり、良心に従って判断して行動することに尽きます。文章で書くとこんな簡単なことはありませんが、世の中は矛盾や不合理、欺瞞に満ちているのが実情で、志を掲げ、高い意識を維持し続けるのは容易ではありません。孔子はそんな世だからこそ、仁を欲する決意を固めろと私たちを促してくれているのだと思うのです。

余談ですが、

先日の実践人の家の研修会で私の憧れの存在である行徳先生が「哲学を持て、今の混迷の世を切り開くのは哲学だ」と非常に強い口調で話されていました。長年哲学を学び、実践されてきた方だけが持つ説得力を放たれておられましたが、その理由にご自身の名前が哲男であり、親から哲学をする様に定められたとのことでした。実は私も名前は親が子供に託した思いを凝縮した宿命であり、悪く言えば呪いだと思っていて、初対面の人に対して名前でその人の印象を決めたりすることが少なからずあります。
ちなみに、私の名前は剛志でして、剛い志を貫くためにこの世に生を受けたのだと無意識下で思い込んでいた節があります。
結局、自分自身の出自である職人の地位を高めたい、建築業界のイニシアティブをモノづくりを行う者に引き戻したい、地域に持続可能なモデルを構築したいなど、私が代表を務める建築事業、地域コミュニティー事業、そして研修事業の全てが志を掲げ、その実現に突き進むことになってしまっています。良く言えば使命、天命を知り、そこに命の炎を燃やす充実した人生であり、悪く考えれば親の傀儡の人生を歩んでいます。
ただ、論語を始めとする古典を学ぶ中で、天命に導かれるのは僥倖であり、大変なことばかりを引き寄せるし、面倒でややこしい事が多くあれども幸せなことだと前向きに捉えています。(笑)

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職人の社会的地位の向上を目指す研修事業

誰も犠牲にしない四方良しの世界の実現を目指す四方継の事業

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