見出し画像

本業はなんですか? てか、末業はなんですか? 

3000年前から綿々と現代に受け継がれ、学び続けられている儒学の世界では、人としてのあり方を問い直す、(問を学ぶ)学問を本学といいます。また、あり方を実現するためのやり方を考え、実践する方法論を学ぶのを末学といいます。あり方を見失い、やり方ばかりにとらわれるのを本末転倒と言うのは、誰しもが知る有名な諺。目的と手段の関係も戒めを持って混同したり、逆転したりしないように留意すべきだと使われます。

本業と末業

この文脈で、本学と末学を修めて、志の実現や世の中の課題解決を目指して持続可能な組織や事業の経営や運営を行うべきであると考えれば、本学に立脚して行うものは本業、末学を駆使して行うのは末業となります。
18世紀の産業革命以降の大量生産、大量消費の時代が終わりを告げ、情報革命を経て、アメリカのIT系に世界を席巻されながらも、一方であらゆる情報を誰しもが入手できるようになった今の時代は、企業は単純で直線的な事業形態では成り立たなくなっており、極めて多様化した顧客ニーズへの対応が求められるようになりました。本格的にモノからコトへのシフトが一般化され、本質的な価値創出、価値提供をあらゆる業種、業態で迫られるようになったのです。顧客が求めているのは、ドリルのキリではなく、板に穴をを開けることである。と例えられますが、建築事業では住宅と言う箱の提供ではなく、暮らしの提供を、もしくは、健康や安心を促進する事業へと転換を迫られるようになりました。そこに真剣に向き合うと、もはや何屋さんかわからないというくらいに生業を転換する事例が、あらゆる業種業態で起こっています。ここで留意すべきなのが、本業と末業の認識だと思うのです。
参考までに、本学の学びを綴ったマガジンも書いてます。

情報革命の次のフェーズ

本来、事業とは社会の課題を解決し、人の幸せに寄与する事で存在価値を認められ、事業の継続が許されるもの。また、経営とは経糸を営む所業であり、持続可能な人の営みを後世に伝えると定義するならば、世の中の課題に向き合い、その解決を目指すことが本業であり、その事業を持続させるためのマネタイズする事業が末業だと位置づけられます。
しかし、世間一般では、メインでお金を稼ぐことが本業で、その余剰金を持って、CSR的な位置づけで、社会貢献することを付帯事業(末業)と言い表すことが少なくありません。本末転倒が世界中に蔓延していると言っても過言でないと感じてなりません。この認識を見直すことこそが、情報革命の次のフェーズに入った、資本主義社会が限界を見せ始めた今の時代に企業や組織に求められるのではないかと私は思っています。

この国の今、

日本は失われた30年と言われるほど、世界の経済成長や情報革命のイノベーションから取り残されました。国民一人当たりのGDPは下がり続け、国民の幸福度も同時に先進国では最低のレベルに位置づけられています。若者や1人親世帯の貧困率は増え続け、若者の死因のナンバーワンは自殺、コロナ以後、全体の数も増加を続けています。生まれる前に、この世に出てくることを拒まれる命は13万件にも上ります。現在の日本は、生きるに値しない世界になってしまいつつある、というか、既にそんな国になってしまっていると判断する人が数多くいるのが現実です。
憲法に書かれている通り、国の主権が本当に国民にあるのなら、国の財政健全化、対外貿易赤字等の表面的な指標ではなく、国民が本当に安心して幸せに暮らせる社会システムを整えた国づくり、国民の幸福度を指針に大きく舵を切るべきです。それが日本の最も重要な社会課題である歯止めが効かない人口減少に対する方向性です。

奴隷制度は構造的問題

しかし、この国のほぼ全員と言っても過言でない職業政治家は、選挙に当選することが何よりも高い優先順位になっており、100年先を見据えることなく、ポピュリズムに陥りがちです。また、強大な影響力を持つ政党や政治家の支援者は、既得権益を握ってさらに富を増大させたい人ばかりです。
国の舵取りをしている政治家や富裕層や上場企業の実質のオーナーになりつつある海外投資家の株主利益を優先する大企業にはこの国を良くするのは構造的に無理があります。既に良い人とか悪い人とかの問題ではなく、社会システムが暴力の代わりに金融を駆使した奴隷制度になってしまっています。
少し冷静に社会を観ればそんな事は誰にでも気がつきます。問題は、世の中に目を向ける事なく、とにかく金を稼ぐだけの末業に執着してしまう人が圧倒的多数を占めてしまっていること。これは、敗戦国になってから78年間に渡る占領国アメリカによる教育の賜物です。しかし、そろそろ多くの人が気づき始めていると感じていますし、気づいてもらいたいと願っています。

未来予測2040 Recruit

本業と末業の関係性

ちなみに、私の本業は教育家です。中卒でろくに学校を出ていませんが、高等学校の校長をやっています。今年立ち上げたところで今はまだ全くマネタイズが出来ておらず、職人育成の高校を全国に広げ、ネットワークする一般社団法人の非営利団体の活動が中心になってしまっていますが、キャリア教育が根付いていないこの国に、社会で活躍出来るスキルではなく、人間力を身につけて学歴社会に縛られず誰もが生き甲斐を持って暮らせる社会を目指して活動しており、まずは受け入れ体制を整えるところから。時間はかかりますが、生徒は徐々に増えれば良いと思っています。
元々大工の私が長年、末業として営んできたのは工務店です。4年程前に、時代の変遷の適応すべく、事業ドメインを建築請け負い業からモノづくりに強みを持った地域コミュニティ事業へと転換する事業再構築を行いました。これもこれまで20数年間お世話になった地域の住民やご縁を頂いた人達へのご恩返しも含めて、持続可能な地域社会を構築するのを目的に掲げての取り組みで、かなり本業に近いですが、それで生業を立てているので私の中では末業との位置づけをしています。しかし、これも目的の具現化に近づくと、本業になってくると考えています。

経済合理性の壁

世の中の課題を解決する、志を掲げて本業に取り組む事業所が増えて、マジョリティーになることがこの国を立て直し、国民が幸せを感じることができる真に民主的な国になるのに必要不可欠なのは勿論ですが、持続性を担保する末業無くして本業も成り立ちません。そして、重要なのは、マネタイズできている末業に志を注入し、社会課題解決に向かう本業への転換、そして本業が末業と一体化して、持続可能性を担保しつつ、社会課題の解決を本業そのもので行えるのが本来目指すべき理想です。
しかし、経済合理性の追求がこれまでのこの国の事業のスタンダードであり、現在、巷に溢れる社会課題とはその合理性の範疇から外れてしまっているからこそ、解決出来ない問題として定着してしまっています。私の専門で例えると、日本のライフインフラを守る職人がいなくなってしまったのも、その代表的な一例です。若手職人の育成や社会保障の付与はコストがかかるが故、正規雇用する事業所がなくなりました。派遣労働者が圧倒的に増えて、若者の貧困が増加したのも同じ理由です。

経済合理性限界曲線(画像=『ビジネスの未来』)

受容と共生と共感で構築する共同体

経済的な合理性が無い、要するにカネが儲からない課題解決を事業化するのが本学に基づいた本業の役割だと私は思っています。決して簡単では無いのは自明ですが、だからと言って諦めてしまうと、この日本は本当にだめになってしまいます。今一度、日本人が古来から大切にしてきた共生の精神を持って、三方よしのビジネスモデルを構築することが求められています。
世界で最も企業の寿命が長い国である日本。この国で100年以上続く長寿企業は全て戦後の西欧型資本主義ではなく、神道と仏教と儒学を混合した日本的価値観、受容と倫理観を持ってハタをラクにするパラダイムを持って働いてきたからこそ、存在を認められ、長年にわたり商いを続けて来れたのを再認識して、新しい資本主義と言われる共感型資本社会、共同体の再構築を進めなければならないと思うのです。既に多くおられる、気づいた人達と共に、経済合理性の外の課題を取り込み、解決に向かわせる社会へと歩みを進めていきたいと思うのです。

_______________

職人育成の高校のプロジェクトで職人不足問題の根本解決を全国規模で進めています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?