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人は人生の中で出会うべき人に必ず会う、一瞬早からず一瞬遅からず。 #今こそ論語を学ぶ理由

国民教育の父と言われた森信三先生の教えを引き継ぎ、実践し続ける人たちの集まり、「実践人の会」の全国研修会が緊急事態宣言が発出されたにもかかわらず兵庫県の尼崎にて敢行されました。今回はオンラインでの参加も可能ではありましたが、憧れの行徳先生の(生)講演もあると言うことで、私は昨年に引き続き今回もリアル参加に踏み切りました。コロナの蔓延で対人型の集合研修や講演会が非常に少なくなった中、直接、対面で迫力満点の行徳先生の声を聴かせて頂き、改めて哲学や心理、原理原則について思いを馳せる実践の重要性をかみしめる素晴らしい時間を過ごすことができました。行徳先生と伝説のラガーマン林敏之さんとのコラボ講演、有名な陽明学者安岡正篤先生の御令孫、吉岡定子さんの論語を解く講義はどちらも本当に素晴らしく、今までの学びを振り返る場となりました。まさに、森信三先生が言われたように、「人は人生の中で出会うべき人に必ず会う、一瞬早かっらず一瞬遅からず。」だと感じる一期一会の時間でした。

何を聴くかよりも誰から聴くか

最近はオンラインでのセミナーや講演会も多く開催されるようになり、ご高明な方々の講演なども気軽に数多く拝聴することができるようになりました。セミナーや講演などに参加するたびにそれなりに学びや気づきがあるものですが、胸に深く刻み込むといった強烈に行動を促されるような事はあまり多くはありません。今回の実践人の会の研修会で行われた講演の2本とも、ただ良い話を聞いた、との感想を持つだけではなく、深く自分の中で咀嚼し、行動としてアウトプットしようと強く思えました。研修会全般の根底に流れていたのは、大転換を迎えた混迷の時代に必要なのは哲学である。そしてとかく難しく考えがちな哲学は頭で考え、こねくり回すものではなく、実践を通して身に付けるものだとの孔子の時代の2500年前から培われてきた原理原則ではなかったかと思います。そして、何を聴くかよりも誰から聴くか、89歳になられた行徳先生の気がほとばしる語り口は今回も胸に沁み入りました。

小論語とその解釈

今回初めて拝聴した安岡定子さんの論語の講演と言うよりも寺子屋的な教えでは、会場に集まった全員で論語を素読し、その内容を歴史的な背景や深い意味まで紐解いて解説されました。昨年1年間、毎朝、論語の素読に取り組んだ私にとっては、安岡さんの解釈を聴いて改めて気づかされる部分も多くあり、非常に勉強になりました。私自身の備忘録の意味も含めて、ここでも記しておきたいと思います。
以前、論語の中で1番好きな節は何かと問われたことがあります。その際に、私がとっさに答えたのはあまりにも有名な以下の文です。

子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。
朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

質問された方に「これって誰もが知ってる1番初めの文やないかーい。」と突っ込まれましたが、毎朝素読をしていたにも関わらず、咄嗟に口に出たのは最も印象に残っていたこの文でした。安岡先生によるとこれは江戸時代に小論語と言われ、論語全体を通して表されている考え方や意図を凝縮して表している一文とのことで、500ある論語の文の中でも最も重要であるとのこと、なんだか少し救われたような気がしました。(笑)
安岡先生に一文節ずつ丁寧に解説頂いた解釈を私の理解も含めて以下に記します。

子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。

これが有名な論語を開けた時に一番初めに目に入る言葉です。孔子の言葉を編纂した弟子達は膨大な数の師の教えの中から悩む、選び抜いてこの一文を冒頭に据えたであろうことは想像に難くありません。絶対になんとなく、適当に選ばれたのではないはずです。それくらい重要な概念が凝縮されてある一節の「学びて時に」とは学んだことを時々習う(練習、復習)するのではなく、何時いかなる時も、との意味であり、習得した学びを平素から習慣に落とし込み実践してこそ成果も上がるしそれが喜びに繋がる。逆説的に言えばいくら学問を学び、修めたところで実践しなければ何の意味も価値もないとのことです。安岡正篤先生から陽明学の薫陶を受け、教育現場に実践させた森信三先生の教えを実践する「実践人の家」の全国研修の講演にこれ以上相応しいテーマは無いと感じました。

朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや。

論語に書かれているのは学びと実践が第一義、そして、その次に続くのは同志の存在です。朋(とも)とは単なる友人ではなく、朋輩、朋友と言われるような共に学んだ志を共にする同志を指しているとのことです。同じ師について学び、志を掲げ、世に出てそれぞれ活躍する中で、論語の中にも繰り返し書かれているように理想と現実には大きな壁があり、世の中は不条理や矛盾に満ち溢れています。師からの教えに従っても思い通りにならない様々な事があるものだが、遠くでも同じ志を掲げてがんばっている朋輩がいるだけで勇気が出るし、心強く感じたりもする。そしてそのような朋友と再開することがあれば、その気持ちはもっと強くなり、お互いの成長につながる。友がいるからこそ自分の成長にもつながるということを指しているとのことです。孔子は自分自身が功成し、名を遂げることを捨てて、人を育て、世に送り出す事に力を注いだとされます。良い世の中を作るには、良い人が多く輩出されなければならない、成果は状態に由来するとの原理原則を指し示しています。

人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

安岡さんは第一文の三行目のこの節が最も重要だと言われました。この一文こそが論語全体の世界観を凝縮して表しており、この在り方を広める事こそが世界を良くする基本となるとの事でした。「人知らずして」とは、人が自分のことを理解してくれない事を指しています。他人からどんなに自分のことを評価されなくても、そんなことに憤らず、自分が学んだ道徳や倫理に従い正しいと思うこと、行うべきこと、進むべき道を迷わずに突き進むことが重要である。そんな良き人がこの世に増えることで必ず世の中は良くなって行く。そう信じたからこそ、孔子は広く門戸を開き、多くの若者に教えを授け、世を憂い、共に未来のあるべき理想の姿を語らい、人を育てることに力を注ぎ続けたのでしょう。周りからの評価や評判、世の移ろいに惑わされたり振り回されるのではなく、真理を求め、誰もが持つ良き心のままに生きることを強く指し示した深い言葉です。

今、論語を学ぶべき理由

以上が論語の冒頭に書かれてある一文についての安岡禎子さんの解説の要約です。安岡さん曰く、500を数える論語の文章の中で、この文が1番最初にすえられたのは、上述の3つの概念こそが講師が最も大切にしていたことであり、儒学の真髄を表していると言っても過言では無いとの事でした。孔子が残した言葉を弟子たちが編纂した論語は、最も根本の部分で性善説に拠っており、人は誰しも生まれつき、優しい心や人に対する思いやり、人の心をおもんぱかって力を持っており、孔子が最も重要だとした「仁」を兼ね備えていると言われます。そんな考え方が2500年の時を経た今も受け継がれていることを考えれば、時代の荒波を越えていく真理であり、原理原則ではないかと改めて感じた次第です。
そして、VUCA(不安定、不透明、複雑、曖昧)化された混迷の今の時代を生き抜くのに必要とされる、多様性を認め、広い人材が持つ多彩な才能を開花させることによってこれまでの強欲資本主義と言われてきたピラミッド型のヒエラルキー社会で解決できなかった社会課題を解決させようとのムーブメントは、その根底に人間、誰しもが無限の才能の持っている、良き心とそれを行動に移す力を持っているとの性善説に拠っているところが大です。その考え方、概念を如実に表しているのが論語であり、今こそ、世界の人々は孔子の指し示した世界を学び、目指すべきではないかと感じた次第です。

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原理原則、人の道を問いかけ、考え実践する研修やってます。


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