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意外な驚きの妙満寺

雪月花三庭苑のひとつ「雪の庭」で有名な妙満寺。
正確なお寺の名前は、顕本法華宗けんぽんほっけしゅう 総本山 妙塔山 妙満寺
今朝はさらさらと小雪が舞ったので、庭園だけを見たいと思い訪れてみると、意外な事実の連続。

参拝しないとわからないことって沢山あるものですね。

妙満寺山門までの参道
妙満寺境内 左手の大きな党は仏舎利大塔


雪の庭

俳諧(俳句)の祖と言われる松永貞徳(1571-1653)が造営した枯山水の庭園。貞徳は「雪の会」を催し、連歌から独立した文芸として認められるようになり後の松尾芭蕉や与謝野蕪村を輩出して確立した。このことから妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地でもあるという。

「雪月花の三名園」と称される庭は、清水寺の「月の庭」、北野天満宮の「花の庭」と妙満寺「雪の庭」。

もう少し雪が積もっていればなお美しかったのでしょうけど、それでも惚れ惚れする美しさにざわざわしていた心が急に静まりました。

雪の庭を眺める
比叡の峰を借景にする


手水ちょうず(五条大橋橋脚蹲踞きょうきゃくつくばい

天正年間(1573-1592年)に豊臣秀吉の命によって架けられた五条大橋の橋脚の一部だという。他には京都国立博物館と京都迎賓館に据えられているという。
摂津国御影(現神戸市東灘区御影)から運ばれた「津国御影」の文字がかすかに残る。

五条大橋の橋脚蹲踞 氷が張ってました


安珍・清姫伝説の鐘(妙満寺霊宝)

「鐘に恨みは数々ござる」で知られるお話

少し怖い話でありますが、、、

安珍・清姫の鐘

安珍・清姫の鐘の由来

延長6年(928年)8月、修験者の安珍が熊野権現へ参詣の途中、庄司清次の宿に泊めてもらった。その娘である清姫はそこで安珍に一目惚れして言い寄ったところ、安珍は帰路に再び立ち寄ると約束して去っていった。

清姫は、安珍の帰りを待ち焦がれていたが、安珍は約束を破り素通りしていたことを知り、激怒して後を追う。
憤怒のあまり蛇身にかわった清姫は、道成寺(大宝元年(701年)に創建された文武天皇勅願所)の釣鐘に隠れた安珍を見つけ、鐘にとぐろを巻き火焔を吐いて焼き殺してしまった。

その後、道成寺では何度も鐘を造ろうとしたが、清姫の呪いからなのか災厄が続き完成させることが出来なかった。
しかし、その後400年の歳月が流れ、漸く2代目の鐘が完成。

その祝儀の席に白拍子しらびょうしが現れ、舞いつつその鐘楼に近づき鐘を引きずり降ろした。
道成寺の僧たちはこれぞ清姫の怨霊なりと、必死に祈念、鐘は上がるが白拍子しらびょうしは蛇体の本性を現し日高川に飛び込んで姿を消した。

時代は過ぎて戦国の世、豊臣秀吉の紀州攻めのおり、大将・仙石権兵衛秀久が戦利品としてこの鐘を持ち帰り京都まで運ぼうとしたが、京都の手前で重い鐘を乗せた台車が坂を上りきれず已む無く土中に埋めてしまった。

その後、近隣にただならぬことが相次いだため、不審に思った村人たちに掘り出され、天正16年(1588年)に妙満寺へ奉納することとなった。
時の妙満寺貫主の供養により、鐘にまつわる怨霊は解かれ鳴音美しい鐘となって今日に至ると伝わる。

妙満寺霊宝「紀州道成寺 安珍・清姫の鐘」由来より


豊田家一門が眠る

「植樹」豊田章一郎 豊田章男 

このお寺を散策していると、「植樹」としてわたしの尊敬する豊田章一郎・豊田章男両名の名を刻んだ石碑があった。
豊田家は愛知県なのに、何故京都のこのお寺で植樹をしたのだろうと不思議に思っていたところ、「仏舎利大塔建立由来」の中にその答えがあった。

仏舎利大塔は、全国檀信徒の納骨堂になっており、豊田佐吉翁以来の豊田家一門をはじめとする多くの篤信者の遺骨が安置されている。

妙満寺「仏舎利大塔建立由来」の一部より
仏舎利大塔 逆光のため画像はよくありませんが


最後に

何気なく、ふと参拝したお寺にわたしが尊敬する豊田章男社長のご先祖が眠っていることを知り驚きました。
まさかまさかです。

少し前に参拝した「九頭竜大社」では、日本電産永守会長を知るなど、神社仏閣を参拝すると意外な驚きとの出会いがあるものですね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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