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西郷隆盛言志録【1】

創立者の岡崎功先生は「西郷隆盛言志録」という本を遺しています。

一度しかない青春時代に高い目標を掲げて、勉強やスポーツに励むことはとても大切なことです。と同時に、人として正しい行動ができるよう、美しい行動規範である『徳目』を身につけることも、人格形成にとって必要不可欠なことなのです」

先生は次世代を担う若人「人として正しく生きる」とはどうあるべきかをご自身の著書を通じて問いかけられました。


1)南洲手抄言志録


西郷南洲(隆盛)翁は、明治維新を成し遂げ「維新の三傑」と称えられた人物です。明治6年、政府の役職をすべて辞して故郷の薩摩に帰り、私学校を建てて青年教育にも取り組みました。

南洲翁は、『南洲手抄言志録』という書物を自ら編纂し、生涯にわたって心の糧としていたのでした。

南洲【なんしゅう】…南の島という意味。西郷隆盛が自ら名乗った雅号
翁【おう】…敬いと親しみ
を込めて年長者の名前の後につける敬称
手抄【しゅしょう】…書物などから自分で書き抜くこと、また書き抜いたもの

「南洲・翁・手抄」の意味

(西郷南州は)「凡そ国を治めようとするものは、先ず自分を修めなければならない。自分を修めることが出来ないものが、どうして能く人を治め、国を治めることが出来よう」と、佐藤一斎『言志四録』の中から、最も青年の人生に役立つものを選ぼうと、『言志四録』をさらに新しく読み返してみた。

西郷隆盛言志録「序」より

佐藤一斎翁とは江戸末期の儒学者です。
後半生の約40年にわたり随筆『言志四録』を遺しました。
人の在り方や生き方を記したもので、時代を越えて多くの人々に読み継がれてきた書物です。

西郷南洲翁は、この『言志四録』から101条を抜粋し、絶えず座右に置いて自らの行動の指針としました。

座右【ざゆう】…座席の右という意味から手の届く身近なところ

「座右」とは

南洲は、その言志録を読み直しているうちに、これこそ永遠に脈々相伝える「青年の書」としなければならないと、佐藤一斎の百之寮(一斎の号、一斎の私塾の名)にちなんで、101章の教訓を選び、自ら筆をとって書き綴った。
百は満つるに至るをいう意で、すべてに通暁せよと教えたのだが、西郷は百に通暁したら、また一から始めると、永遠の教えと学びの道を志として101章教訓を結んだ。

西郷隆盛言志録「序」より


2)南州翁の精神との共鳴


昭和48年(1973年)、
岡崎先生は『南洲手抄言志録』の教えを基に『西郷隆盛言志録』を執筆しました。

西郷南洲『手抄言志録』に就いてぜひ書くように依頼を受け、ここに全文101章より、現代人の人生への指針となり、成功への奥義となるに適切な章を選んで、教育者としての立場から、戦後教育に欠けたものを満たしたい念願に駆られ、不敏をも顧みず大西郷の志を享け、その至誠をもって心のたけを述べた次第である。

西郷隆盛言志録「序」より

岡崎先生は、「敬天愛人」の精神を生涯を貫いた西郷南州翁をこよなく愛し尊敬していました。

国の未来を考え私財を投じて後半生を青年教育に捧げた高い志は、南州翁精神共鳴『西郷隆盛言志録』誕生したのでした。

その意味では『西郷隆盛言志録』は、佐藤一斎翁『言志四録』、西郷南州翁『南洲手抄言志録』系譜に連なる本とも言えます。


3)実践倫理という徳育講義


昭和48年(1973年)に発刊して以降、『西郷隆盛言志録』を用いて15年以上にわたり『実践倫理』という徳育の講義(授業)をご自身で行なわれたのです。

誰にも分け隔てなく接し、大きな愛で包み込むように若人に接する先生は西郷南洲翁を彷彿としました。

授業では、先生のお話しを聞いたり『言志録』の教えを学んだりしましたが、その時間の中で生徒たちの琴線に触れたものは、国を思い青年に愛する先生の情熱であり、先生の心そのものだったと思います。

琴線【きんせん】に触れる…心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激して感動や共鳴を与えること

「琴線に触れる」とは


まとめ


『人の正しきミチ』を踏み行なうことが何よりも大事なことなんだよ…
そして世のため、人のために尽くす人に成長してほしい…
親の恩に報い、誰からも頼りにされる人物に…


慈愛情熱に満ちた先生は、今も「西郷隆盛言志録」の中から心ある若人に語りかけています。


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