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床屋と図書館 その10

 次の月も、その次の月も、そのまた次の月も、真文は校庭でサッカーを終えてから、閉店間際のバーバー金子に駆け込み、その日、最後のお客さんになりました。
 ドアに閉店の札を下げ、カーテンをぴったりと閉めてから、「スポーツ刈りでよかったね」とおじさんは合言葉のように確認してから、真文の髪を切り始めました。
 店の奥の暖簾の向こうの、おそらく台所である場所から、金子のおばさんが夕飯をこしらえているのであろう匂いや気配がする日もあれば、しない日もありました。
 どちらの日でも、おじさんは真文の股間に触れました。指先で、その小さな弾力を確かめるように、そっと。
 ラジオから流れてくるのはいつだって『子ども電話相談室』です。

 何度、触れられても、真文がそれに慣れることはありませんでした。
 カット台に座るとすぐ「いつ触られるのだろう?」と頭の中がぐるぐるし、徒競走のスタートラインにいる時以上に心臓が強く脈打ちました。
 だけど、おじさんの指先がいざ真文の股間に触れた時、真文は驚いたそぶりや困惑の表情を浮かべるようなことはしません。まるで何も起こっていないように平然と無表情でいるように努め、鏡越しにおじさんと目が合ってしまった時などは、ささやかに微笑みました。
 こんなこと、大したことではないのです。
 男同士の、よくある小さな悪ふざけです。

 だけど、事件は夏休みが明けてすぐの日に起こりました。
 休み時間中、羽賀が突然「俺、この間、稲葉のおっさんにチンコ触られたぜ!」と言い出したのです。
 机でひとり本を読んでいた真文はその声を聴いた瞬間、心臓に急ブレーキがかかったような気がして苦しくなりました。
 しかも、羽賀の発言に続いて「え、俺も!」と中野が言い出したかと思えば、羽賀と中野を囲んでいた男子たちが「俺も!」「俺も!」と、まるで合唱するように言い出したのですから、目の前の本の中に整列している文字が遠い外国の言葉であるかのように真文にはまったく解読できなくなってしまいました。

「俺はズボンのジッパーを下されたぜ!」
「俺なんて、店の奥の部屋に連れていかれて裸にされた」

 そんなのは嘘だと思いました。
 おじさんの指先が真文のズボンのジッパーに触れたことなどありませんでしたし、店の奥の部屋は、実際に見たことはありませんが、稲葉のおばさんが夕飯の支度をする台所のはずです。

 家に帰るとすぐにお母さんが尋ねてきました。

「アンタ、床屋さんで変なことされたことない?」

 稲葉のおじさんの話は、子供たちから大人たちの知ることになっているのだとすぐに悟り「…ん?」と真文はとぼけました。

「稲葉さんの旦那さんに、体を触られたりしたことない?」
「ないよ」
「本当に?」
「…頭は触られるけど…あと、顔とか」
「そう、ならいいわ」

 真文は早足で逃げるように自分の部屋に入り、壁に背中をもたれながら大きく息を吐きました。
 咄嗟に上手な嘘がつけてよかった、とホッとしました。
 だけど、すぐに、不安な気持ちが胸の奥に広がりました。
 もしも、稲葉のおじさんが「真文君のおちんちんを触ったことがある」と告白してしまったらどうしましょう? なぜ嘘をついたのか、とお母さんに追求されるに違いありません。

 どうして嘘をついたのか?

 それは、中野があの時「すげー気持ち悪いんだよなー」と言ったからでした。羽賀は「今度触ってきたら殴ってやるぜ!」と意気込んでいました。他の男子たちも口々に「キモイ」「ムカツク」「ハゲオヤジ」と稲葉のおじさんを罵り始めたのでした。
 
 真文は、金子のおじさんに股間を触られて、驚いたり、ドキドキしたり、ちょっと怖いと感じたことはありますが、気持ち悪い、とか、ムカツク、とか、殴ってやる、などという感情や想いを持ったことは一度もありませんでした。それどころか、もう一度してほしいというような自分でもちょっと不思議な気持ちで、何度も、何度も、わざと閉店間際のバーバー金子に駆け込んでいたのです。

 だから、あの休み時間に、「僕も触られた!」と男子たちの輪に入っていくことができませんでした。

 真文は本の上にじっと視線を落としたまま、何も聞こえないふりをしていました。何も聞こえないふりをしたまま、心の中で、自分が感じたことと、みんなが感じたことが、どうやら『違う』らしいということに戸惑っていました。

 だから、お母さんにも、誰にも、「僕も稲葉のおじさんに体を触られました」と告白することができなかったのです。

「次からは、ヱビス理髪店で髪を切りなさいね」

 お母さんは、真文にそう命じました。
 ヱビス理髪店は荒川の橋を渡った向こう側の、真文の家から歩いて15分以上はかかるところにありました。

「遠いよ…」
 
 ささやか抵抗を試みましたがお母さんは首をふるばかりでした。
 あまりにしつこく抵抗すると何かを勘ぐられてしまいそうで、真文はヱビス理髪店で髪を切ることを受け入れました。

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