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床屋と図書館 その11

 中学校にあがった真文はブラスバンド部に入部しました。
 『サックス』を演奏してみたかったのです。
 長く伸ばした髪を片方の耳にかけ、少し傾けたサックスを伏目がちに吹くチェッカーズの藤井尚之の姿に憧れた真文は、だから、ようやくスポーツ刈りと決別して髪を伸ばし始めました。

 「サックスをやりたい人」
 入部からしばらく経ったある日、顧問の先生に尋ねられて、真文は勢いよく手をあげました。チェッカーズの効果なのでしょうか、サックスは新入部員から一番人気の楽器でした。
 ですが、次の瞬間、音楽室中に怒鳴り声が響きました。
「男は金管楽器をやれ!」
 3年生の藤田先輩でした。
 藤田先輩は、短ランと呼ばれる丈の短い学ランと、ドカンと呼ばれる太いズボンを履いた、部内でもっとも権力を持つ先輩でした。
「男は金管をやれ。金管の方が肺活量が必要だから!」
 真文を含む男子たちは慌てて手を下ろしました。なんて理不尽なお話なのでしょう。真文は救いを求めるように顧問の先生の方を見ましたが、藤田先輩の言うことには先生も反論できないようでした。
 サックスが吹けないのならブラスバンド部にいる意味はありません。
 今すぐここを去りたい気分でいっぱいでした。
 ですが、そんな真文に追い討ちをかけるように藤田先輩は言いました。
「オマエ、オマエはトランペットをやれ!」
 真文のことをまっすぐ指しながら。
 藤田先輩の担当楽器はトランペットです。
「俺がしごいてやるから」
 真文はそれまでの人生でもっとも絶望的な気分になりました。 
 
 それからの真文は藤田先輩の弟子でした。
 楽譜の読み方、マウスピースの鳴らし方、音階の指遣い、すべてを藤田先輩がつきっきりで教えてくれました。そして一度教えられたことを間違えるとものすごい勢いで怒鳴られ、時にはビンタがとんできました。
 校内でも1位2位を争うほどの不良と噂される藤田先輩は、授業をサボることも日常茶飯事のことのようでした。そんな藤田先輩がどうして部活動には熱心に参加するのか? ここもサボってくれればいいのに、と真文は思うばかりでした。

 ですが、藤田先輩の弟子になって良かったこともありました。
「こいつは俺の弟子だから。こいつに怒っていいの、俺だけだから」
 藤田先輩が部員全員の前でそう断言してくれたおかげで、真文は他の先輩たちから怒られたり揶揄われたりすることがありませんでした。2年生の先輩などは、藤田先輩に言いつけられてはたまったもんじゃないとでも言うように真文をていねいに扱ってくれました。

 ある日、真文は、フルートを担当する2年生の女子の先輩から「藤田先輩に渡してほしいの」と手紙を託されました。
 軽くパーマをかけた髪に、俳優や雑誌モデルがこぞってしている流行りの黒縁メガネ、そして、誰よりもトランペットが上手な藤田先輩は怖い先輩であると同時に女子部員たちが密かに憧れる先輩でもありました。
 託された手紙を渡すと「オマエが捨てておけ」と藤田先輩はぶっきらぼうに言いました。あわてて音楽室のゴミ箱に捨てようとすると「そこに捨てるな!」と真文はお尻を蹴っ飛ばされました。

「ちょっと付き合え」
 その日の部活終わり、真文は藤田先輩に誘われました。
 部活帰りにはいつも大好きな図書館に寄って、2階の一番奥の本棚の陰の、古い本の匂いが一日中立ち込めているような場所に身を隠すようにしながら本を眺めることで部活のストレスを軽減させていた真文は、反射的に「嫌だ…」と思いましたが、断ることなんてできるはずもありませんでした。

 校則で禁止されている自転車通学をしている藤田先輩は、学校の裏に隠した自転車の後ろに真文を乗せ、学校から少し離れた小さな公園へ向かいました。
 ブランコの横のペンキの剥がれた古いベンチに他校の制服を着た女子が座っていました。
「これ、俺の彼女」
 藤田先輩が真文に紹介すると女子は立ち上がり「こんにちは」と真文に微笑みました。
 背の高い藤田先輩の半分くらいしかないほどにも見える小柄な女子でした。ショートカットの髪は普通に黒髪で、制服のスカートは短くも長くもなく、こんな女子が藤田先輩の彼女だなんて真文には意外でした。
「こいつ、俺の弟子」
 藤田先輩が紹介してくれたので真文も「こんにちは」と頭を下げました。
「だからな、今度からああいうのはその場で断れ」
 藤田先輩がはっきりとした口調で真文に言うと「ああいうの、って?」と彼女が尋ねました。
「それは、あの、僕が2年生の先輩から手紙を…」
 藤田先輩より先に真文が説明し始めると、「お前は黙ってろ!」と藤田先輩に後頭部を叩かれました。
「叩かないのー!」
 彼女があわてて言いました。
「いや、だって、こいつが余計なことを…」
「だからって叩いちゃダメ!後輩には優しく、でしょう?」
 彼女に諭されて藤田先輩は小さな声で「ごめん」と謝りました。それは真文に対してではなく、彼女に対してのごめんであることは真文にも解りました。ですが藤田先輩の口から「ごめん」なんて言葉が出てくるなんて!と、真文は密かに衝撃を受けていました。

 藤田先輩の彼女は隣の中学校のブラスバンド部でクラリネットを吹いています。区内の中学校のブランバンド部が一堂に介する年に1度のコンサートでふたりは知り合ったそうです。
 藤田先輩が手紙の件を説明するとを「へー、モテるんだねー」と彼女が笑いました。笑うと目が細くなってとろんと垂れ下がり、優しそうな顔がいっそう優しそうになりました。
「俺には関係ねーし」
 藤田先輩は照れたように彼女から視線を外してそう言いました。
 授業はサボるけどブラスバンド部の活動には熱心に取り組む藤田先輩のその理由が、真文は解ったような気がしました。

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