見出し画像

町内三大迷惑老人は隙あらば電話を切る

自分らしく自由に生きる。

それに類する言葉は素敵な生き方の見本として、自己啓発本やヒット曲の歌詞でたびたび登場してきた。

多くの人は他人に強制された生き方はしたくないし、自分の思うままに立ち居振る舞うことを望む。人によってはいつしか自分探しの旅に出るし、等身大のアタシをぎゅっと抱きしめるし、インドに行けば人生観が変わるとか言い出して普通に1週間観光して帰ってくるし、タージ・マハルは思ったより大きかったなどと話す。

改めて“自分らしい自由”を意識するというのは鬱屈した生活を送る人々の願望なのかもしれない。


そういった意味で祖父は自分らしく自由に生きた人だった。自由とはいっても元国鉄マンである祖父は規律をしっかり守る人であり、盗みや詐欺や殺しはもちろん、暴力をふるうわけでも不倫をするわけでもないし、インドにも行かなかった。ただ何と言うか、性格的に変なところが無軌道で自由奔放な人だった。具体的にどう自由なのと聞かれたら私はこう答える。

「祖父は隙あらばすぐに電話を切る人だった」と。


あれは小学生時代のこと、離れて暮らしていた祖父に電話した時の話である。当時そう意識していたわけでは無いが、一般的に孫からの電話というのは嬉しいものであり、たくさん話をしたいのがおじいちゃんとしての心境だと思う。

しかし我が祖父は違う、とにかく電話を切る、容赦なく切る。

「もしもしおじいちゃん? 僕だよ、元気?」

「ああ元気だよ、オマエも元気か? そうかそれは良かった」ガチャ 

誇張無しにこんな感じで一方的に電話を切られる。当然ながら元気かどうかという話題は会話のクッション的な役割であり、本題ではない。軽い世間話を投げかけようものなら、祖父は受け取った話題をそのまま地面にタッチダウンを決めて試合終了、会話のキャッチボールは成立しないのだ。

孫という好ポジションを得ていながら一方的に拒絶される衝撃の電話、恐るべきテレフォンショッキング。ひょっとして僕は愛されていないのではないか。考えてみると自分は祖父からすると12人目の孫であり、そう珍しい存在でもない。供給過多におちいった孫の株が暴落し、飽きが来たのではないだろうか。

そういえば父は姉が生まれた時は毎日病院に足を運んだらしいが、私が生まれた時には1度しか病院に来なかったらしい。二人目の子供の時点で早くも飽きたのだ。そう考えると父の父である祖父が孫に興味を無くしても仕方がないのかもしれない、血は争えないということか、生まれるのが遅かったばかりに孫というカードも子というカードもその強さを失っていた。私は齢7歳にして諸行無常を感じずにはいられなかった。


祖父はコミュニケーションが苦手なタイプだったのだろうか。いや、それは違う。遊びに行けばむしろ積極的に話しかけてくるし太ももを触ってきた。「元気か」「学校は楽しいか」という孫との会話レッスン1みたいなごく普通の話を仕掛けてくるが、その際に必ず太ももを触ってきた。座って漫画を読んでいる小学生の孫に対して「おじいちゃんと遊ぼう」などと言いながら太ももをさするので、出るところに出れば実刑もありえたのではないだろうか。

なぜなんだ、孫に興味は無いけど等身大のアタシの太ももには興味があるのか、とんでもない煩悩ジジイだ。そう思わないでもなかったが、直後に始まった家の中で般若の面をかぶりながらスイカ割りというおじいちゃん考案のイカレた遊びがエキサイティング過ぎて特に気にも留めなかった。そして二人しておばあちゃんに死ぬほど怒られた。


もう高齢だし衰えがきているのではとも言われたがとんでもない。毎日ゲートボールに出かけ、ダメだと言われているのに庭で野焼きしてボヤ騒ぎを起こし、若手の坊さんと一緒になって墓場でタバコを吸って怒られたりとやりたい放題。むしろ少々元気が無くなった方が良いのではとすら思われた。


夕暮れ時になると奇妙な唸り声と共に雑木林から自転車で飛び出し爆走するジジイがいる。そんな怪談じみた話が町内で話題になった時があった。私はちょっとした冒険心から爆走ジジイの謎を解いてやろうと考え、探偵きどりで近所の聞き込みを開始した。するとどうだろう、捜査開始後わずか数分で驚くべき証言を得ることに成功する。

「それ、キミんとこのじいさんだよ」

その正体は我が祖父だった、超スピード解決である。30分番組どころか2分で事件は解決、小学生探偵としてはコナン君より優秀だったのではないだろうか。


「ウチのおじいちゃんはどうやら町内三大迷惑老人と呼ばれているらしい」

ある日いとこがそんなことを教えてくれた。なんということだろう、三大名所や三大グルメ、本来そんなポジティブな内容に使われるべき“三大”がこんなところで浪費されているとは。それも三大迷惑老人とはちょっとした妖怪みたいな扱いである。しかし考えてみれば実の孫が要件を伝えるまでに6回も電話をかけ直さなければいけない人など、まぁまぁな迷惑妖怪だ。うかつに気候の話をしようものなら。

「おじいちゃん、最近暑くなってきたね」

「うん暑いな、じゃ」ガチャ

自転車で爆走して墓場でも迷惑かける話が通じない老人となれば鬼太郎でも相当な苦戦をしそうだ。隙を見て太ももを触ってくるオプションまで付いた日にはゲゲゲくらいは言うかもしれない。

終始この調子なので、迷惑老人云々という話にショックを受けたわけではなかった、むしろそりゃそうだろうなくらいの気持ちだ。居間で寝ころびながら暴れん坊将軍の再放送をみているウチのおじいちゃんは上様よりも暴れん坊なのだ。


画像1


そんな祖父は私が大学生の時に亡くなった。

目に余る腕白ぶりを見せつけまくったおじいちゃん。男はいくつになっても少年の心を忘れないなどと言っていたが、家族からは頼むから早く忘れてくれと思われていたおじいちゃん。迷惑老人などと言われ好き放題やっていた人ならばあまり人望も無く、手を焼いていた家族にしても悲しむ人は少ないのだろう、ここまで読んだ人ならばそう思うかもしれない。


それは大きな誤解である。


祖父の葬式には遠方からも親族一同が、そして付き合いのあったご近所の方も大勢集まった。実際に祖父と過ごした人間にはわかるのだが、彼がおこなってきた数々の行為に悪意は無かったし、迷惑といっても生活に支障が出るものや金銭的に負担がかかる類のものは無かった。行きたいところに行きやりたいことをやるが一線は超えない。自由だが無秩序ではない。それがわかっていたから祖父の周囲に彼を本気で疎ましく思っている人などいなかった。

結局最後に電話した時も何度か話の途中で切られてしまったが、大正生まれの祖父のことだ、もしかしたら電話は要件を手短に、長電話してはいけないという祖父の習慣だったのかもしれない。


私は知っている。おじいちゃんは孫に触れることでその成長を喜んでいた。

私は知っている。おじいちゃんは孫がアニメを観ている時、裏番組だった暴れん坊将軍の再放送を観せろとは決して言わなかった。

私は知っている。おじいちゃんは好物のどら焼きを自分より先に家族に食べさせる人だった。

私は知っている。おじいちゃんは足が悪いおばあちゃんのために日に何度も自転車で買い物に出かけていたことを。

自分は我慢してでも大切な人を優先し、静かに笑っているおじいちゃんを私は知っている。


家族や親しい人がいない中で第三者が祖父の事を記録に残そうとした場合、もしかしたら「好き勝手暴れて迷惑をかけまくったじいさん」として扱われるのかもしれない。それは間違いでは無いが、全く本質をとらえていない記録になってしまう。

幸い祖父の場合は周囲に人が多かったこともあり、見当違いの認識をされることは無かった。しかし核家族化が進んだ現在は常に家族の誰かが近くにいるとは限らない世の中になり、私自身も実家に帰るのは年に数える程度である。

もしこの先私が突然死んでしまった場合、誰か私の事をわかってくれるだろうか。どう生きるのか、どうありたいのか、生き方を考えるなら死に方も考える、そしてそれを共有する場が必要だと思った。


私は実家に帰省する度に両親とよく話すようになった。健康について、趣味について、お金について、家族について。そして最期の時と、その後について。


あの時、私はおじいちゃんの事をわかっていたし、おじいちゃんも私の事をわかっていたと思う。だから電話が切られても怒ったりしなかった。またかけ直せばいいだけだから。

だけど今は祖父も祖母もいなくなった。あの家に電話をかけて一方的に切られることは無くなったが、今度は何度かけ直しても繋がることは無い。

ああそうだ、電話が繋がるうちにもっと話をしよう。私の人生をもっと知ってもらおう、父の自分らしさを、母の自由をもっと知ろう。

私は離れて暮らす両親に毎週電話をかける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?