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ココロノコリ 1-7


 なんだか急速に、寒さが沁みてきたような気がして、若葉は両腕で、身体を抱える。死んで実体のない自分が、寒さを感じるというのが、妙に馬鹿げて感じられた。
「寒い、ね」
 伊東はかすかに戸惑った顔で、ようやくもう一度若葉を見る。あざけり以外の表情を浮かべると、やはり自分と同じ年頃の少年の顔に見える。
「寒い?」
「うん。死んでるのにね」
 ふ、と、伊東が笑った。キツい目元が緩むと、もとが整った顔立ちの伊東はずいぶん華やかに見えて、今度は若葉のほうがうつむいてしまう。
「やっぱヘンな奴だな、お前」
 この一年間、降り続く雨のように意味不明さを注ぎ続けられた相手にそれを言われて、若葉の頬にも、ぎこちない笑みが浮かぶ。
「伊東くんのほうが、変だと思うけど」
 高校生活二度目の夏休みがやってきて、一週間。絶え間ないささやかな悪意の奔流から解放されて、ようやく自由な呼吸を取り戻しつつあった今日、図書館の門の前で、若葉は伊東に出くわした。そこで若葉を待っていたらしい伊東の、理解不能の勢いに押されて、気づいたらバイクの後ろに乗せられていた。脅されたわけでも、強要されたわけでもなかったのに。
 ──川村、俺と、賭けをしようぜ。
 いつもながら意図の読めない行動に戸惑う若葉の、その戸惑いを楽しむように、伊東はただ、乗れよ、と言った。そして、若葉が理由を問う前に、ハンサムな狐のように、にやりと笑った。
 ──チキンレース。
 その坂が昔、暴走族のたまり場だったらしいという話は聞いたことがあった。小さな丘の上にある図書館への勾配がきつくなりすぎないように、舗装された道は丘を巻く形でカーブしている。外側は丘下の畑まで崖になっているその曲がり角は、二輪での度胸試しに最適なのだというけれど。自分には縁のない話だと思っていた。
 ──僕、運転できないよ。
 エンジン音にかき消されて、若葉は同じことを二度言った。
 ──わかってるよ。後ろに乗れ。
 伊東の返答は、あいかわらず意味がわからない。
 ──泣いたら、お前の負けな。
 若葉は、坂の先のカーブに目をやる。確かに少し怖いだろうけれど、この一年で感情のどこかが少しすり切れた気がし始めている今の若葉には、泣き出すほど大きな事には思えなかった。
 ──何を賭けるの?
 聞くと、伊東は少し考えてから、何でも、と、言った。
 ──お前が勝ったら、何でも言うこと聞いてやるよ。
 ──……負けたら?
 伊東は少しだけ首を傾げて、若葉の顔を掬うように見る。そうして伊東に見据えられると、なんだか自分が濡れているような気がして、首筋のあたりがぞくりとした。
 ──俺の言うこと、一つだけ聞け。
 ──でも。
 言いかけて、言いよどんで、若葉はかすかに肯いた。
 こんなまわりくどいことをしなくても、夏休みが終わって、あの狭い世界へ戻れば、伊東は若葉に何でもさせられる。あの教室の内側には、それくらいの力関係が、すでに歴然と存在している。
 おそらくその違和感のせいで、若葉は伊東のバイクに乗ったのかもしれない。あの小さな教室の、金髪の王様のような伊東雄大が、その王国の内側では口に出せない望みを、聞いてみたくて。
(──泣かなかった、はずだ)
 目の前の、もうこの世には存在しないはずの伊東の幻を前にして、もうこの世には存在しないはずの川村若葉は、思う。
(あの賭けは、僕の勝ちだ)
 あのとき、あのカーブで、伊東はスピードを緩めなかった。曲がりきれない、曲がる気なんかないのかもしれない、伊東は最初から、若葉を道連れにして死ぬつもりなのかもしれない、と。そう思ったら、急激なパニックに襲われて、目の前の伊東の、若葉には驚くほど広く感じられる背中に、ぎゅっと、しがみついた。目を閉じた。
 そこから更に少し加速した気がする。次の瞬間、衝撃があり、身体がはずんで、それ以上伊東につかまっていられなくなって、手をはなしたら──世界が、暗転した。
 順を追って思い出して、若葉は確信する。
(僕は、泣かなかった)

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