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【「引き寄せ」ができる科学的理由】私たち人間はどこから来たのか?(2)

意識とは何か

「意識」の主体は人間の外にある?

 ご存じの方も多いかと思うが、すでに現代の科学においても量子脳理論というものが主張されている。
量子脳理論とは「意識」は何らかの量子過程から生じるという考え方である。
 中でも理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフのアプローチが有名なものであるが、「意識」はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管(マイクロチューブル)という脳の神経細胞にある器官がその量子的な働きにより「意識」を私たちの中に生み出す可能性があるというものである。
 このような考えを推し進めていくと「人間の脳は意識の受信機に過ぎない」と言えることになると思われるが、批判は多くあるにせよ、既にこのような発想が量子力学の世界では、科学者の視野に入っているのである。

では意識主体はどこにいる?

 このように考えると人間の脳の外にいる「意識」の主体は一体どこにいるのかという事になる。
これについては様々な考え方がある。
まず意識主体と脳内の微小管との通信についてまでは量子力学がすでにそのやり方を想定している。いわゆる量子もつれという現象を介在して粒子間の情報伝達はたとえその粒子間の距離がどんなに離れていても瞬時に行われることができるということまではわかっている。
 だがかといって「どこから」それ(意識)が発信されるのかについては、もちろんわからない。
ここからはスピリチュアルな分野になってしまう。
 そこで実に多くの人がこのテーマからリタイヤするのである。
「何だエビデンスもないただの空想か?」そう言いだすのである。
しかし考えてみるとこれは大変おかしな話なのである。
一体この世界にいる誰が、脳外にある意識の主体の場所を探してその証拠(エビデンス)を提示することが可能であろうか?
もしこの世界が仮想現実空間であるとすれば、「意識」の発信源はゲームを実際に行っている存在ということになるというのが論理的推論としては妥当なところであろうが、それをゲーム内で確認して証拠を挙げるということなどは到底無理なのである。

現代科学という宗教

 現代の科学では命題がありそれに対して仮定を設置して推論をする際には、必ずエビデンス(証拠)を要求する。
そして合理的な疑いをはさむ余地のない証明までは要求されないこともあるが、何にしてもデータによる証拠がなければ何も始まらない。
 しかしこのことが、現代において「人間がどこから来たのか」というような極めて根源的な問いを哲学的に考えるということが少なくなってしまってきている理由になってしまっているのは皮肉である。
それは同時に科学万能主義によって、本当に私たちが知りたいことがいつまでも解明されないということを意味する。

 現代では科学はまるで宗教のようである。
大学大学院と高度な教育を受けて専門を極めたものだけが、まず科学について語る第一資格を持つ。そして助教授という未だに丁稚奉公のような徒弟制が跋扈する修行を経て教授になりえたものが権威を持ち、学会と言う巨塔の中で完全なピラミッドが構築されている。
 知人にも極めてクレバーで柔軟な思考や発想をするのに、教授との関係が悪くて大学を去りフリーターになった人がいる。科学について語る最終資格を得るためには、大変な努力と期間を必要とするのが現実だ。
彼は「純粋に自分はもっと研究をしたかっただけなのに…」とつぶやいていた。
 しかしどうであろうか?昨今のパンデミックもどきの騒動を振り返ってみたとき、医療の白い巨塔に住む人々は、真に論理的な思考を発信したのであろうか?
 幸いなことに今やSNSやネット環境の発達により、私たちは世界のあらゆる発信者の情報を手にすることができるようになった。実際にはプラットフォーマーとなるSNS運営者の手による公衆衛生ファシズム的な言論統制を受けながらも、人々は設定されたAIアルゴリズムの目をかいくぐり真実を発信し、そして受信し続けている。

 そしてまだ多くはないものの、真実を探求する姿勢を持った人々が生まれ、そういう断片的な形でも世界の各地で起こっている出来事や、信憑性の高い情報に触れるようになった結果、真実に近い情報(それさえも確実なものでは決してないかもしれないが)にアクセスを始めた結果として、
主要メディアによる情報の統制や科学者であるはずの、権威のある医学に携わる人々の虚偽に満ちた発信は、その内容によっては笑止とされるようにもなり、科学の権威は著しく地に堕ちてしまった。
市井の人々は馬鹿ではないのだ。
 いや堕ちたのは科学の権威ではない。科学者の権威である。

科学万能主義のほころび

 科学者でもなく政治家でもない一市民の目から見ていると、本当に今の科学は宗教であることに気づくことができる。
 「感染対策で酒を禁止する首長」「体育館でやるオンライン修学旅行を行う学校」「オペでもないのに医者ではなく患者に通気性の悪いマスクを常時強要する病院」等々非合理的なことを、権威のある人が後押しするからという理由で人々が盲目的にそれを励行する。
正直な話「頭がおかしい」としか感じられないことを、何かしら正当化するための論拠を持ち出して来て人に強制する。初めに結論があり、それに従わせることに意味があることが透けて見えてしまう。
 そこでは事の妥当性の是非や論拠の吟味は後回しであり、ピラミッドの上部からのお達しこそが大切なのであり、まさにその構造は宗教と同じなのである。
 宗教に洗脳されると、いかに人は論理的思考を失うのかを実感として知ることができる。

 この科学という宗教を信奉する者が一番恐れているのは、ひょっとして科学万能主義のほころびなのかもしれない。
 私が一度SNSで地球平面説(フラットアース)についてコメントしたら、その瞬間に猛烈な勢いでそれを非科学的なものであるというコメントがたくさん寄せられたことがある。
普段反論のコメントなどほぼ来ないアカウントでのコメントだったので大変違和感があった。
コメントも地球平面説について全面肯定するようなものではなく、思考の柔軟性について述べたものであったのだが、「これは真実に違いない」と思い込んでいる人たちには異論は許されなかった。
 こういう硬直化した姿勢を持つ人々が多数派になれば、柔軟な科学的な姿勢などは貫くことが困難になる。

真の科学とは何か

 では真の科学とは何であろうか。
科学の定義は、一定の目的・方法の下で様々な 事象を研究する認識活動およびそこからの体系的知識だとされている。これだけだと一定の方法の下で認識活動を行えば良いことになってしまう余地があるように感じるが、科学の根幹となる科学的方法に共通してみられるべき特徴は、証拠に依拠しており、仮説と理論を使用して結論を導いていることであると言えよう。
 つまり簡単に言えば、誰が主張しようと論理的な思考に基づく推論がなされていて、合理的な根拠があればそれは傾聴に値するし、研究する価値があることなのである。
 学会や医師会が価値の高い研究として認めているものだけが科学ではなく、論理的に考えてこの世界の真実を解明しようとする姿勢の先にあるものは、誰がそれを研究しても科学なのである。
 なぜこのような話をするかと言えば、一市民としての実感として、今や本当の科学は科学者の籠る巨塔にあるのではなく、反論可能な言論空間(ただし弾圧あり)であるSNSやネットの中の一般人の持ち合う情報の中にある気がしているからである。そこでは真実性の吟味が常に可能だからである。テレビに登場する権威のある博士である必要はなく、「真実は何か」を柔軟に知ったり気づくことができたりする場がそこにあるのだ。

(3)へつづく。
 


 




 


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