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KANのこと

NHKしか見せてもらえない子どもだった私が、小学校2年生のとき、ホームルームの余興(?)で同級生が歌っているそれを聴き、はじめて「ポピュラー音楽」という存在に出会って眼が開かれたのが、「愛は勝つ」(と「さよならだけどさよならじゃない」)だった。
それでCDをもらい、他の曲も聴き、民放テレビの歌番組的なものもはじめて見せてもらった。私にとって最初の歌謡曲/J-POPが、KANだった。
それをきっかけにテレビ/芸能界という存在を知り、ほぼ同時に「めずらしい人生」(めずらしい人生 今うたをうたってる あれほど逃げまわっていたピアノを弾きながら)や「テレビの中に」(だからもうじきゆくよ テレビの中に 夢が本当にかなう そうさその日まで)を子供心にめちゃめちゃ内在化した。
「『私もテレビの歌番組に出る人になりたい!』と思う」というのは、多くの子どもが一度は通る道だと思うけど、自分の場合は、その経路がアイドルではなくKANだった。

ご存じない方が多いと思うけれど、KANは一発屋どころか、近年まで30年くらいの間ずっとすぐれた新曲を生み続けている。
自身の作品以外でも、「さよならだけどさよならじゃない」(やまだかつてないWink)、「雨にキッスの花束を」(今井美樹)、「16歳の恋なんて」(安倍なつみ&矢島舞美)など提供曲の素晴らしさも光るし、桜井和寿やaikoなど明確に大きな影響を受けている後続のJ-POPヒットメイカーも多い。

KANの歌詞は具体的だ。同時代のポップスと比べても、ストーリーとディテイルが豊かにある。
中高生の頃は、その「なよなよした男心」の歌詞世界ににどっぷり感じ入っていた。(恥ずかしながら「言えずのI Love You」を何度カラオケで歌ったことか……!)
その私から見ても、それらの歌詞は今日のジェンダー観からするとけっこうキツい。(「健全安全好青年」や「今夜は帰さないよ」、あるいは「MAN」がいい例だ。)
なので、ここ数年、「サウンド的には、まさに今いわゆるシティポップ・リバイバルにも乗っかれるような側面があるのになー」と思いつつ、声高に推しづらい部分があった。(いわゆるシティポップはクリシェ的で内容が薄い歌詞が多いのに対し、KANの場合はそこが個性 且つ 私小説的であるから、余計にそうだった。)

なんだけど、私が「Long Vacation」(キムタクのドラマの方)に思い入れたり、あるいはレオン・ラッセルやドクター・ジョンに傾倒したのだって、原体験にKAN(や槇原敬之)がインプットされていたことと、きっと無関係ではない。
KANはまぎれもなく、自分にとって音楽の原初的なルーツの大きなひとつだと言わざるを得ない。

近作で特に印象的なのは、歌とピアノと弦楽四重奏だけの編成で録り下ろした2枚のセルフカバー集=『la RINASCENTE』(2017)、『la RiSCOPERTA』(2018)だ。
ボーカリスト、メロディメイカーとしての魅力が際立つのはもちろん、おそらくKANにとって大きなテーマ/モチーフである「元クラシック習い事少年によるポップミュージック」という性質や、それと直結した彼の真面目さ・実直さみたいな面が強く滲んでいる。

初期以外の楽曲からひとつ挙げるなら、「よければ一緒に」(2010)。
フォークソングや往年のスタンダードのように、シンプルなメロディのほぼ繰り返しだけで作られていて、それなのに8分以上の長尺。歌詞も基本的に「よければ一緒に その方が楽しい」のリフレインで、通常の商業音楽では考えにくいつくりだけど、聴いている途中で飽きることが全く無い(少なくとも私は)。
こんなにもシンプルでストレートアヘッドなラブソングの新曲があり得るということに感動したし、いまだにずっとエモーショナルな曲だと思う。

考えられないくらい音楽界の訃報が続いた今年。
今年が特異点と言うよりは、おそらくこれから毎年、どんどん悲しい報せが増え続けていくんだろうなと思うと、齢を重ねることの辛さを強く思わざるを得ないけれど、そんな中でも特に大きい喪失感がある。

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