漱石の近代 近代の漱石


慶應3年に生まれた夏目漱石の年齢は、明治〇年と丁度一致します。明治という時代とともに、漱石は年齢を重ね、歩んだのです。
 
漱石の処女作「吾輩は猫である」は1905(明治37)年に発表、遺作「明暗」の執筆途中でこの世を去ったのは1916(大正5)年(49歳)でした。作家としての活動は、たったの10年ちょっと。
明治の世になり言文一致運動が進み、いろいろな文体が試されました。その中で、漱石の文体がひとつの範となり、今に至る文芸表現へと連なります。漱石の二作目「坊ちゃん」は、リズミカルな日本語で、すらすら読み進めます。漱石の作品をもって国民文学の成立という人もいます。
 
これは文芸界における近代化です。
 
明治維新前後をきっかけに始まった日本の近代化、その象徴的な結末として、日清・日露戦争をあげる人は多いと思います。日清戦争、日露戦争に勝ったこと、勝ってしまったことが、太平洋戦争への道を開いてしまったという人もいます。もし日清・日露戦争に勝ってなかったら…とつい想像してしまいます。この勝利への道筋を明治の歩みととらえるなら、教科書に顔を出す明治維新期の廃藩置県も地租改正も四民平等も殖産興業も徴兵制度も何もかも矛盾なく一本道を進む成功物語へのプロローグとみなすことができるでしょう。
 
実際、教科書の記述を追っていくと、栄光への歴史が私たちの前に立ち上がってきます。
 
日本で一番読まれている小説のひとつ「こゝろ」には、明治天皇の崩御と乃木希典の殉死の話題も出てきます。漱石は日清戦争や日露戦争を一日本人として生で体験した人です。この2つの戦争に勝ったことにより、いろいろな面でゆとりが享受され大正時代の自由な雰囲気が束の間生まれたともいえます。
 
漱石は江戸時代の知識人がそうだったように幼年より漢籍に親しみますが、近未来の日本を見据えて、帝国大学では英文学を専攻します。外国人教師から頼まれて「方丈記」を英訳するほど英語に堪能でした。その意味でも、漱石は江戸時代的な教養を身に付けながら、近代の教養を学ぶという、この時代の知識人が通った道を歩んだのでした。漱石が書き残してくれたおかげで、人々の、といっても知識人に限定されるかもしれませんが、心(精神)の中でどんなことが起こっていたのかを知ることができます。
 
漱石の心の中で近代化はどう進んでいったのか、世の中が近代化する過程で漱石の心の中では何が起こっていたのか。
 
「私は大学で英文学という専門をやりました。(ところが)…三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支えないでしょう。…私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。…私はこうして不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。…しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢(ふくろ)の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐(きり)は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。…いくら書物を読んでも腹の足しにはならないのだと諦めました。」
 
「この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。」
 
「今までは全く他人本位で、根のない浮き草のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。…私のここに他人本位というのは、…いわゆる人真似を指すのです。…その頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。…こういう私が現にそれだったのです。…つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。」
 
「自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。…私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。…今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。…その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰鬱な倫敦を眺めたのです。…私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。」
 
以上は、死の2年前、1914(大正3)年に学習院で行った講演「私の個人主義」から抜粋したものです。
大学以来煩悶し、不安を抱き続け、多年の間懊悩してきた漱石は、その理由(「他人本位」という態度や生き方)をロンドンで見出しました。漱石自身が、西洋人のいう事だと言えば何でもかでも盲従して威張り、西洋の知識を機械的に、人真似のように吸収し、それを我物顔のようにしゃべって歩き続けてきた、というのです。
 
「いくら書物を読んでも腹の足しにはならないのだと諦めました。…この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。…私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。」
 
これが漱石の直面した近代化でした。盲目的な「他人本位」と「自己本位」(個人主義)の救済です。
 
漱石は大正時代の初期、大正ロマンといわれたその入り口で他界しました。いよいよ個人主義が芽を吹いて花開こうとする直前に49歳という若さでこの世を去ってしまったのです。もし大正後期そして満州事変以降の戦争の世を目撃していたら、漱石はどんなことを考え、何と言っただろうと思わずにはいられません。
 
「他人本位」の末に(つまり近代化の末に)、私たち日本人は中国大陸への侵略そして太平洋戦争へと突き進み、敗戦を迎えたのでした。
 
敗戦を迎え、はたして日本人は「他人本位」から脱することができたでしょうか。
 
1970(昭和45)年、自害する4か月前、三島由紀夫は「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」という小文の中で、次のように記しました。
「私の中の二十五年間を考へると、其の空虚に今さらびっくりする。私は殆ど「生きた」とはいへない。二十五年前に私が憎んだものは…おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。其れは戦後民主主義と其処から生ずる偽善というべきバチルスである。」
宮台真司の要約を借りると、「日本人は一夜にして天皇主義者から民主主義者に変わった。周りを見回し集団の中での自分のポジショニングにしか関心のない日本人は、空っぽの存在である」が文意になります。
 
真似するものが「天皇主義」から「民主主義」へ変わっただけで、「他人本位」はなくならず、そのまま生き残っただけでなく、まさに蔓延していると三島は喝破したのです。
 
この「他人本位」は、明治の学制発足以来、日本の学校教育を覆い続けた根源であり、隠れたカリキュラムの中心として学ぶ者の態度や生き方を制し、今もカリキュラムを動かす中心的な原動力として働いていると言っても過言ではないでしょう。この「他人本位」の態度や生き方を根本から問い直し、変えようとしたのが大正自由教育(窓際のトットちゃんの世界)であり、戦後新教育における経験主義的な教育だったのです。前者は国家主義の台頭により、後者は銀行型教育(系統主義)からの批判(這い回る経験主義という誹謗と中傷)により、ほんの数年でその火は消されてしまったのでした。

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