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人間は誰かが作ったものの中で生きている

現存するあらゆる社会制度や体系化された技術は、全て過去の人々が築き上げたものだ。当たり前のことと思うかもしれないが、作った人々が生まれる以前には、それらは無かったものであるという点においては何も当然のことではない。それらが存在しない社会というものが過去には確かに存在したわけだ。

この事実に関して、2つ想うことがある。1つは、既存のシステムに対する"有難さ"だ。もちろん現代においては有益でないシステムもあるのだが、昔に比べると、社会がはるかに効率かつ平等に機能していることは事実である。日常生活に根付いてしまった当たり前のものには、なかなか注意が向かないが、それらがなくなった世界を容易に想像できる世の中に、ここ数年で大きく変化したように思う。機能不全に陥りつつある社会制度や技術体系に関しても、かつてはそれが有効に機能し、社会を豊かにした時代があったこと、その豊かさにこれまでの社会は支えられてきたことを思い出させる。

2つ目は、誰かが頭で考えて作った枠組みの中で人間が生きていることに対する"やるせなさ"だ。動物と比較するわけではないのだが、人間は社会を動かす誰かが設計した枠組みの中で、それをあまり理解せずに(理解しようともせずに)生きている。シビアな表現をすると「生かされている」わけだ。社会制度という名の目に見えない檻の中で、生存状態を保たれている。

人間を含めるあらゆる動植物は、理性と知性を兼ね備えており、それらを駆使して生きていく存在であると僕は考えている。本来、管理されるべきではない、管理される必要のない存在だ。

しかしながら、多くの人々は特定の人々の構築した枠組みの中で身動きを取り、その枠組みの存在にすら気付くことができない。もちろん、その枠組みから恩恵や豊かさを得ることもある。ところが、楽しみながらも一生懸命に生きて、考えて行動した先に、乗り越えられない壁に直面することが、なんだか残念で仕方がない。それをどうしても"限界"と捉えてしまう、そんな印象だ。

何としてもこれを乗り越えたいと思う。壁を乗り越えず、それまでのプロセスを楽しむ、そこにある豊かさに目を向け、実感するという生き方もある。ただ、そのような生き方に対して、僕の脳内には"妥協"という二文字が浮かぶ。僕にとっては、あまりワクワクしない人生だ。

これを乗り越える方法はいくつかある。1つは自分で新しい枠組みを設計すること。2つ目は、既存の枠組みを設計し直すことだ。

前者には様々な選択肢がある。数多くのプラットフォームやテクノロジーを駆使すれば、特定の権力に頼ることなく、新しい枠組みを設計することは可能だ。後者も前者と同様に、多くの手法があるだろう。組織に属する場合には、その"限界"を感じつつも、権力を行使できる立場に立ったときに改革を起こすことも可能だ。

人生に対する"やるせなさ"や"限界"と向き合うことは、新しいものを作っていく上で、とても大切なことのように思う。既存のシステムや技術体系から得られる豊かさとバランスをとりつつも、考え続けることが、社会の発展へと繋がっていくのだろう。

2022年4月9日

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