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いま東日本大震災を振り返る

 元旦の大地震により能登半島で暮らす人たちの日常生活が奪われ、家族や友人が奪われ、大切な「家」や「想い出」が奪われ、さらに被災者の方々が困難な状況下で懸命に日々を暮らしている。
 南海トラフ地震がいつ起きても不思議ではないと警告され続けている私たち愛知県民にとって、まったく他人事とは思えない。
 これを機に、2011年の東日本大震災を振り返り、正常性バイアスに捉われやすい私たち人間への戒めとしたい。
 

 東日本大震災と福島原発事故の余波を受け、東京電力と東北電力の電力供給量が逼迫し、「計画停電」が実施された。この四字熟語、私にとっては東日本大震災で初めて耳にする言葉だった。

 実は「計画停電」は東日本大震災が初めてのことではない。戦時下においても戦後の復興期においても電力統制が行われた。空襲により、都市部にあった火力発電所や変電所は大きな被害を受けた。主力であった水力発電所は被災を免れたが、渇水期になると電力不足が深刻となった。また、石炭をエネルギー源とした製鉄などの鉱工業が、石炭不足のためエネルギー源を電力に転換したことや、薪炭価格の高騰のため家庭用電熱需要が急増したことも電力不足を加速化した。エネルギー不足による電力への依存と、産業界の電力需要の増大は、戦後の復興期から高度経済成長初期まで続くことになった。

 東京電力が設立された1951年、政府は本州全域に電力使用制限を告示し、電熱器・ボイラー・製塩・広告灯の禁止、電灯・業務用電力の昼間使用禁止、小口・大口電力の週1回の休電日設置などが発令された。1953年には深刻な異常渇水で電力使用制限が発令され、週2日の休電日や緊急輪番停電が行われた。この事態から抜け出すべく、冬季・夏季の渇水期においては発電力が小さくなり、季節的変動が著しい水力発電への依存からの脱却がはかられた。そのために行われたのが、火力発電所の増設であった。この電力不足の解消が、高度経済成長の前提となり、家電製品の普及につながった。一方で、このような電力不足は、水力発電にかわるもう一つの発電として、原子力への着目を生むことになる。東京電力は、東芝・日立と協力して「東電原子力発電協同研究会」を設置、原発設置候補地の選定を始め、原発誘致に積極的であった福島県知事に、原発敷地を確保することの斡旋を申し入れた。これが、福島第一原子力発電所の源流となっている。


 2011年の東日本大震災で、原子力・火力発電所が被災して電力不足が生じ、計画停電が実施された。電力の戦後史を考えると、これは当然の結果といえる。停電しなくてはならないような電力不足が火力・原子力発電所の設置につながったわけであるが、火力・原子力発電所が被災すると、こんどは戦後の電力不足状況が再現された。

 歴史は繰り返すという。復興の足を電力不足が引っ張ったという状況は共通しているが、原子爆弾により放射能の恐ろしさを知る唯一の国でありながら、被災した原子力発電所から漏れた放射能に東北地方の被災者が苦しんだのはあまりにも皮肉なことではないだろうか。


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