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日本のジャンヌダルク&ナイチンゲール

 日清・日露戦争では、負傷兵の救護を行う従軍看護婦が活躍した。「従軍」といっても、当時はまだ戦地に派遣されていたわけではなく、勤務地は国内の病院である。しかし、女性が戦争に参加したということ自体に世間は注目した。初舞台となった日清戦争での従軍看護婦の活動は「婦人従軍歌」という軍歌になり、後々まで歌われたのである。さて、日清戦争では一万人以上の死亡者が出たが、その九割近くが赤痢やマラリア、コレラなどの疫病によるものであった。従軍看護婦が活躍したとはいえ、戦争の犠牲者を少なくするためには、もっと看護体制を強化して衛生環境を向上させなければならない。当然、そのためにはもっと多くの看護婦が必要となる。

 従軍看護婦の大半は日本赤十字社が養成していたのだが、一方で看護婦という職業のイメージアップに貢献したのが、皇族や華族、政府高官の妻など上流階級の婦人だった。彼女らがボランティアで率先して看護活動を行ったことで、当初はいやしい仕事とされた看護に対する世間の見方が変わっていった。

 その影響もあってか、日露戦争時の従軍看護婦の活動は規模・内容ともに充実し、日清戦争時と比べ病人は約6分の1で、病人、病死者の割合は激減した。また、それらの成果に加えて、ロシア人場の負傷者に対する看護も手厚かったことから、彼女らの活動は国際的にも高く評価されたのだった。その評価に貢献するかの如く、日本赤十字社の活動に強い味方が加わった。新島襄の夫人である新島八重、会津の戊辰戦争でスペンサー銃を持って活躍した幕末のジャンヌ・ダルク、旧姓山本八重であった。

 新島八重の最愛の伴侶である新島襄が、明治23(1890)年の新春にこの世を去った。八重は自身の立場で何ができるか、何をして生きるべきかを考えた。そして、同年4月、八重は日本赤十字社に加盟して正社員となり、京都に設立された日本赤十字社篤志看護婦人会の会員になる。周知のことではあるが、この日本赤十字社、通称「日赤」は、戦争や大きな災害が起きたときに敵味方の区別なく支援するジュネーヴ条約に基づいた組織のことである。
また、篤志看護婦人会とは、有栖川宮熾仁親王妃董子ありすがわのみやたるひとしんのうひただこの令旨により、日本赤十学社社長佐野常民
が中心となって組織した慈善団体であり、皇族や華族の夫人29名が参加していた。当時、看護婦は人命を救う立派な職業であるにもかかわらず、根拠のない偏見により、貧しい者たちが就くレベルの低い仕事だと見なされることがあった。そこで、上流階級の夫人たちが看護婦となり、戦時に率先して救護活動を行うことで、看護婦の地位を向上させようというねらいであった。さらに付け加えると、当時の八重の立ち位置は、上流階級の夫人たちに匹敵するものだった。

 明治27(1894)年8月に日清戦争が勃発すると、八重は看護婦取締の役に就き、会員40名を率いて広島陸軍予備病院へ赴任、4か月間にわたり傷病兵の看護活動に明け暮れた。同29年6月、この功績により、八重は日赤の特別社員に昇進し、感謝状と記念品を受け取った。また、同年12月には、国から
勲七等宝冠章と金70円を授与されたのである。

 明治38年には、日露戦争の最中に大阪陸軍予備病院へ赴き、2か月間にわたって血膿ちうみにまみれた傷病兵の看護を続けた。また、この戦地から送られてくる傷病兵のなかには、捕虜となったロシア兵も含まれていた。八重の看護活動は、敵味方の区別なく支援する赤十字の理念そのものであり、クリミア戦争に従軍した看護婦ナイチンゲールの印象を彼女に重ね、日本のナイチンゲールと見る人たちもいた。翌39年、八重は国から勲六等宝冠章を、日赤からは感謝状と記念品を授与された。

 この篤志看護婦人会の看護活動について、八重は「この方々(傷病兵のこと)の思いを察してみますと、知らず知らず涙があふれ、室外へ出て涙をぬぐうことが度々あるのでございます」と告白している。苦痛に呻く傷病兵のなかには、捕虜となったロシア兵も含まれていた。傷病兵たちの世話をすることにより、かつて体験した会津若松での籠城戦の記憶が、八重の脳裏によみがえってきたのではなかったのではないだろうか。

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