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佐久島にギネス記録の船頭さんがいた!

 家族旅行で佐久島に行ってきた。愛知県の三河湾内には、佐久島、篠島、日間賀島という3つの島がある。佐久島は愛知県西尾市に編入されており、他の二島と違って、佐久島のみ西尾市の一色港から船が出ている。西尾には吉良町があり、「忠臣蔵」で悪役として描かれる吉良上野介義央の出身地である。「忠臣蔵」では完全に悪役として描かれている吉良上野介だが、地元では川の氾濫を防ぐ堤防工事に尽力するなど、善政を布いた殿様として尊敬されている。
 
 さて、佐久島には一色港から定期船に揺られて約20分で到着する。
 三河湾に浮かぶ愛知県西尾市佐久島はかつては「作島」とか「佐古島」と書いた。サコはサクの転じたもので、サクの意味は色々漢字であらわされる。作、削、割、裂、窄、咲などがある。花の蕾(つぼみ)が裂かれたり割れたりする様子を「咲」とあらわしたのだ。佐久島を訪ねてみると、石灰岩がむき出した海岸線が続くが、佐久島漁港や入ケ浦のように島が「裂かれた」ような入り江がある。長野県の佐久市は、新開地を示す「サク(作)」に由来する説があるが、やはり素直に佐久盆地の大地を「裂(割)いた」地形地名と考えられる。佐久間ダムのある浜松市天竜区の佐久間町の由来は、天竜川のつくった谷間を示す「サコ(狭処)・マ(間)」の転用と考えられるが、裂かれた谷間の意味もあるのかもしれない。

 『三河国二葉松』という書物には、「佐久島、三囲三島ノ一也、参河ニ属ス、東南ニ小嶋アリ、竹木繁茂シタル中ニ弁天ノ祠アリ、三州三弁天ト云、弘法大師彫刻ノ霊像三弁天ノ第一也、雌亀嶋、雄亀嶋、其外寺院多シ」と記されている。第三紀中新世に海中で堆積した島とみられ、島の各所より2500万年前と推定される貝の化石が多数採集されている。『佐久島旧紀』という書物によると、村名の由来は、崇神天皇の御代、五十鈴河のほとりに大神を移し奉ったとき、その斎宮の郷に佐久彦命という人がおり、この地に来住して農業を始めたことから佐久島と命名したと書かれている。

 佐久島出身で有名なのは、江戸時代の船頭である重吉(1785~1853)で、5年間にもおよぶ太平洋漂流の末に生還を果たした。重吉は1813年、江戸からの帰航中、遠州灘で暴風雨に遭い、遭難。大豆や蒸留した海水で生き延びて、米カリフォルニア沖で英国船に救助され、帰国した。
 重吉は佐久島の百姓善三郎の次男として生まれ、尾張半田村百姓庄兵衛の養子となった。29歳のときに廻船督乗丸の沖船頭として乗組員13名とともに師崎から江戸へ航行し、その帰路に伊豆子浦沖で暴風雨に会い、約17ヶ月間、太平洋を漂流した。イギリス船フォレスター号に救助され、アラスカ、カムチャッカを経て5年後に帰国を果たしたが、この間に船員は次々と亡くなり、帰還を果たしたのは重吉を含め2人であった。その後の重吉は尾張藩のお抱え水主となり、名字帯刀を許されて小栗重吉と名乗ったが、亡くなった船員たちの供養のために職を辞し、異国から持ち帰った品を公開するなどして浄財を集め、笠寺観音に供養塔を建立した(現在は熱田区の成福寺に移された)。重吉が新城藩の池田寛親に語った漂流の顛末は『船長日記』という書物にまとめられているとのことだ。
 
 なんと重吉の長期漂流生還は世界記録だと言われており、現時点で、重吉が漂流した484日間という日数は「物証のある世界最長海上漂流記録」として、ギネス世界記録に登録されているそうだ。
 まだまだ知らないことばかり。何歳になっても「学び」は必要ですね。 

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