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渡辺美佐子さんが歩んだ34年間の朗読劇「この子たちの夏」

 34年にわたり、原爆で亡くなった子どもたちの手記を語る朗読劇を続けたベテラン女優の渡辺美佐子さん。戦争を知る世代として、そして表現者たる女優として、彼女が背負う決意が素晴らしい。
                        (上記画像の出典:テレビ朝日「徹子の部屋」より)

 100本以上の映画に出演し、60年以上にわたって活躍している女優・渡辺美佐子さん。太平洋戦争時に戦火を逃げ惑った経験を持ち、映画デビュー作『ひめゆりの塔』(’53)では、地上戦となった沖縄で自害した女学生を演じた。渡辺さんがライフワークとして34年にわたり続けてきたのが、広島・長崎の原爆で亡くなった子どもたちの手記を語る朗読劇『この子たちの夏』である。「原爆、戦争を語り継ぐのが女優としての使命」と語った渡辺さん・・・残念ながら2019年の夏の公演をもって朗読劇は幕を閉じた。

 渡辺さんが朗読劇を始めたきっかけのひとつには、初恋の少年の存在があったそうだ。彼は小学生時代にすぐに転校して行った元同級生。再会を望みながらも月日は経つ。後に女優となった渡辺さんは、あるとき偶然、その同級生が1945年8月6日の朝、疎開先の広島で勤労動員に出かけたまま帰らなかったことを知る。その後、朗読劇の準備をしていた渡辺さんは、朗読劇の資料として集めた本の中に、同級生の名前を見つけた。1年生321人全員が亡くなった広島二中の名簿だった。
 「12歳で命を奪われた彼の存在が、心の中にしこりのように残っていた。そんなばかなことがあってはいけないという怒りが、ここまで続けさせてくれた」と語る渡辺さん。「ここで辞めるのは悔しいけれど、年もとった。若い人たちに何があったかを伝えるのが、戦争を知る私たちの務めだと思う」と話された。

 朗読劇『この子たちの夏』より、原爆で子をなくした母親の心の叫びを引用する。

 勝司ちゃん、あなたが生まれて二週間後に支那事変が始まり、そして八月六日から十日後に終戦。戦争の間、あなたは生を受けていたのね。人間らしい楽しい生活も知らないままに。あなたがもの心ついたころから夜は灯火管制で暗闇の生活。食べ物は大豆かすのご飯や糠のまじったおだんご。あなたは大豆かすのご飯が大嫌いだった。八月六日のその朝も、お母さんは仕方なく大豆ご飯を炊きました。嫌いといったあなたは、おかあさんから叱られて涙をいっぱい浮かべて食べました。そして学校に行ったのね。ランドセルを背負って「行ってきます」これが最後のことばでした。あなたはそのまま二度とおかあさんの元へは帰ってこなかったの。あのとき、なぜ叱ったのだろうと、二十年たった今も心に残って仕方がないの。あなたはどこで死んだの。火に包まれながら、おかあさん、おかあさんと泣き叫んだではないかしら。全身火傷をおいながら、苦しい息の下から、おかあさん水を、あかあさんさん水といいながら、息が絶えたのではないかしら。どんな姿になってもいい。不具者になってもいい、もう一度おかあさんのところへ帰って来てちょうだい。そしたらこの胸にしっかり抱きしめて、そして真っ白なごはんを腹いっぱい食べさせてあげたいの。これがおかあさんの切なる願いです。    
                       (新谷勝司・母 君江)

朗読劇『この子たちの夏』より

 渡辺さんは戦前、今も西麻布にある笄(こうがい)小学校に通っていたそうだが、その時の思い出を次のように語っている。貴重な体験談である。 

「私の自宅は今で言う麻布という山手でしたので、3月10日のたいへんな空襲には遭いませんでした。ただ、空が真っ赤に焼けていたのはよく覚えています。でも、5月になってからは山手も爆撃されるようになり、私のウチを含めて7軒焼け残って、その周りは全部焼けました。私は母と姉と疎開をして、父が一人、東京に残って家を守りました。」

 そして、戦後やっと家に帰ったが、その頃は東京で焼け残った家はほとんどなく、めぼしい家は米軍に目をつけられたという。 

「私の家は一間だけ洋間だった。そして、米軍に洋間を接収されて、アメリカ軍の将校が日本の女性を連れて、住み込んできました。台所もトイレも一緒です。その頃の東京は本当に食べるものがなくて、戦争が終わっても畑や田んぼがあるわけでもない。母が朝、大豆を煎って、煎った大豆の一握りが毎日の食事でした。しかし、同じ台所でジャーッとすごい音が聞こえ、すごい匂いも漂ってくる。米兵が焼くビフテキだったんです。私たちにとって、お肉といえばせいぜい肉じゃがとか、お客さんが来てすき焼きとか。そういう風にしかお肉にはお目にかからなかった。知らなかったものですから、巨大なビフテキを焼いた音と匂いがお腹にしみました。」

 渡辺さんは長崎で最後に行われた原爆朗読劇の特別公演について話された。

「朗読を女優たちとコツコツ日本中でしてまいりましたけど、その時のお金が少し貯まり、終わるのを記念してそれを広島と長崎の原爆資料館に半分ずつ寄付いたしました。そうしたら長崎の市長さんがすごく喜んでくださって、『昨年お呼びすることができなかったので、今年こそ長崎で』とおっしゃるので、急遽、台本も縮め、女優の数も少なくして小編成にして長崎公演をやることになりました。それが本当の最後になりました。」

 戦争を知る世代の平和の語り手は、一人また一人と減ってきている。渡辺さんが危惧されているのは、演劇や映画、テレビドラマなどの文化が戦争の記憶を継承する役目を果たせなくなってきていることだ。戦争を描くドラマは単発なものばかりで、原爆投下や終戦の8月ですら視聴率が取れなくなってきているという。

 最後に渡辺さんが語った言葉には重みがある。

「大事なのは教育です。どうして日本は勝つはずもない戦争をしたのか。なぜ年寄りと子ども、女性しか住んでいない都市に原爆が落とされたのか。戦争に行けば普通の人間が人を殺す。そう言った事実を子どもたちにきちんと教えれば、ばかばかしい戦争を防ぐことができるのではないでしょうか。学校で戦争の恐ろしさを教えてくれれば、私たちの朗読劇も必要ないのです。『年寄りが企画して、中年が命令し、若者が死んでいく。それが戦争』という言葉があります。世界や日本がどう動いて、いま危ないものは何かを見極めて、おかしな風が吹きそうな時には体を張って抵抗する。そういう若者が増えてほしいです。いまの綱渡りの世界平和が、広島、長崎の犠牲者に支えられてることを私は忘れません。」

 戦後を謳歌してきた私たちは、戦前を知る人の言葉からしか学ぶことができない。いつまでも戦後が続くためには、戦争の悲惨さや愚かさを知る人たちが生きているうちに学ばなければならない。広島市の教育委員会では「はだしのゲン」が教材から外された。でも、私たちにはあと少しだけ、戦争がない平和な世界がどれだけありがたいことかを生の証言で学べる時間が残されている。「戦後」という言葉がずっと続いていくことを願って!

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