見出し画像

子どものウソって「やばい?」

 民俗学者として有名な柳田国男は「ウソ」に関心が強かったようだ。彼は『不幸なる芸術』のなかで、「ウソと子供」について論じている。柳田国男は「ウソ」に対して、なかなか肯定的である。まずはじめに、小学生が「3千円拾った」(当時なら大金である)というウソをついた例があげられていて、実は自分も9歳のときに「2年越しに苦しいウソをついていた経験がある」と述べている。同級生に、ついつい自慢話がしたくなって、「女の親子づれの、しかも美しい人」が泊りに来るウソ話をしてしまい、それが心ならずもどんどんふくれあがるのである。そんなわけで、柳田はウソをつく子どもに対してきわめて共感的である。


 民俗学者らしい考察として、もともと「ウソ」は「ヲソ」などと呼ばれていて虚偽という意味よりも、面白いお話という意味の方が強かったことを柳田は明らかにする。そして、「以前は村々には評判のウソツキという老人などが、たいていは一人ずつ住んでいて」人々を楽しませていた。そのようななかから「人望のあるウソは必ず話になっている。難しい語で申せばもう文芸化している」というわけである。「とにかくにこの人生を明るく面白くするためには、ウソを欠くべからざるものとさえ考えている者が、昔は多かった」と柳田は述べている。


 そんなわけで昔の人は、「ウソ」と「虚像」とを区別していた。ところが、近代になってそれらを区別せず一括して「ウソ」と断定し、しかも「「ウソつき泥棒の始まり」などと一括して、これを悪事と認定するような風潮が起った結果、彼等はおいおいにウソを隠すようになって来て、新たに不必要に罪の数を増したのである。こういう点にかけては、近代人はかえって自由でない。」つまり、近代人は人生の面白さを見失って、カタクなってきた。

 それでは子どもの「ウソ」にどう対処したらいいのか。柳田は次のような例をあげている。彼が子どもだったころ、3歳の弟が豆腐屋へ油揚げを買いに行き、帰ってきたのを見ると、油揚げの先が三分ばかり欠けていた。そうして、弟は「いま坂の上の方から鼠が走って来て、味噌こしに飛び込んでここだけ食べて行った」と説明した。柳田流に言えば、「一町ほどの間に一つの小説を編んだのであった。」これに対する家族の反応はどうだっただろう。「幸いにしてこのウソの聴衆は、同情に富んだ人ばかりであったからよかった。」母親はふだんは口やかましい人だったが、「この時ばかりはおかしそうに笑った。そうして快くこの幼児にだまされて、彼のいたいけな最初の智慧の冒険を、成功させてやったのである。」

 このような例をあげて、柳田は近代化された「おかあ様」がやたらに子どものウソに怒らないようにと忠告する。「子どもがうっかりウソをついた場合、すぐ叱ることは有害である。そうかと言って信じた顔をするのもよくない。また興ざめた心持ちを示すのもどうかと思う。やはり自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよいかと考えられる。そうすると彼等は次第に人を楽しませる愉快を感じて、末々明るい元気のよい、また想像力の豊かな文章家になるかも知れないからである。」
 以上が体験に基づく柳田の「ウソ」論である。今日でもそのまま通用すると思われる。

 ウソにも2種類ある。人生を面白くするためのウソと、自分の利益を守るための虚像とである。そして、後者に対しては厳しく罰しなくてはならないが、前者に対しては、笑ってすます寛容度が必要である。これは、ひとつのメルクマール(目標を達成するまでの道のり)である。しかし、現実はそれほど明確に割り切れないのでなかろうか。柳田の弟の場合にしても、盗みをした上でそれをごまかそうとしている、という見方をすれば、絶対に罰しなくてはならないことになる。そこで、以上のメルクマールも一応大切としながら、もうひとっ考慮すべき要件として人間関係ということを考えてみよう。

 現代的母親のなかには、悪の相対化とか、子どもの理解などを盾にとって、子どものウソを見逃してしまう人がいるが、これは困ったことである。ケジメのついていない人間は骨抜きになって、自分の力で立っていけない。しかし、嘘は絶対許さない、というのと、嘘なしに生きていけない人間としての共感を両立させることは難しい。その点、大家族では言わず語らずのうちに役割分担ができていてやりやすかった。現代は核家族の形態が明らかに多くなったが、それは大家族でできていた役割分担ができなくなった分、親は昔の親よりも困難な仕事をしなくてはならなくなってしまったのである。核家族になった分だけ親の課題が増えるのは当然であり、親の役割を果たすのが困難になったもう一つの要因が「孤育て」「貧困家庭」の増加だ。

 柳田は昔の日本では、ウソの面白さがうまく生活のなかに取り入れられていたと述べた後に、しかし武家ではそうではなかったとつけ加えている。
そして、明治以後、日本人がこぞって武家の生き方を真似しようとしたので、ウソの価値が急に認められなくなったことを指摘している。しかし、問題はそれだけではなく、西洋文化の影響もある。西洋ではウソは徹底的に排除され、ウソは悪と考えられるのだ。柳田もこの点をよく認識していて、日本では平気で「ウソばっかり」とか「ウソおっしゃい」とか言うが、それをそのまま英語に直訳したら大変なことになると指摘している。そして、「近頃この趨勢を何となく感じた者が、「ウソおつきなさいよ」の代りに「ごじょうだんでしょう」を用いるようになったそうだ。

 欧米で「うそつき」などと言うと、とんでもない喧嘩になるほどだが、その代り、彼らはジョークが好きである。そして、ジョークとウソとは明確に異なることになっている。その点、日本人は区別をあいまいにして、「ウソ」と言う。柳田が言った「ごじょうだんでしょう」というのは、確かに一昔前、東京ではよく言われたことである。誰か知恵のある人が英語の“You are kidding”からヒントを得たのかもしれない。

 かつて、若者たちの間で「ウッソー!」という言葉が流行ったことがあった。若者が流行らせる言葉には難解なものが多くて、私には理解不能なものが多いのだが、柳田国男氏が存命であったらぜひ分析していただきたい若者言葉がある。それは「やばい」という言葉だ。
 「このハンバーガー、ヤバい!」…ハンバーガー味を表現した言葉だが、「おいしい」という意味で「ヤバい」のか、「まずすぎる」という意味で「ヤバい」のか、それとも「ボリュームに驚いて」「ヤバい」のかその場にいないとわからない。
 「宿題がヤバい」…これも宿題の量が多すぎることなのか、難易度のことなのか、提出期限ギリギリだからなのか、前後関係がわからないと理解に苦しむ表現だ。



私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。