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ならぬことはならぬ 八重の桜に学ぶ

 NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、山本八重は「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれた。大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城と続く幕末維新の流れの中で、会津藩は「朝敵」とみなされ、会津若松が最大の激戦地となった。その会津藩の中で最も異彩を放った女性が山本八重だ。砲術指南役の家に生まれた八重は、その男勝りな性格もあり、最新式のスペンサー銃を手に敢然と新政府軍に立ち向かったのであった。

 八重の父である権八は、婿養子として山本家に入った。会津藩砲術師範役という任にある山本家には跡取りがおらず、子どもは一人娘の佐久だけ。縁組のため白羽の矢がたったのが、近隣に住む永岡繁之助である。繁之助は佐久と結婚した後、先代の権八(八重の祖父)の名を受け継いだ。

 山本家の遠祖は、甲斐の戦国大名である武田倉玄に仕えた軍師の山本勘助だと伝わる。勘助は歴史学的には実在を疑われてきた人物だが、さまざまな文書の発見により、近年は存在を認める説が有力だ。ただし、山本家が勘助の子孫かどうかは判然としない。いずれにしろ、山本家は会津藩で、勘助と同じように兵学を担うことになる。

 会津における山本家のはじまりは、初代会津藩主となった保科正之に招かれて茶頭を務めた茶道家の山本道珍だ。道珍は正之が信濃高遠藩主だったころ、江戸で召し抱えられた。作庭でも知られる小堀政一(遠州)が立てた武家茶道の一つである“遠州流”を学び、正之に教授したのである。

 道珍は正之の転期に従い、会津に居を移した。山本権八家は道珍の二男にはじまる流れとされ、代々、兵学で藩に仕えることになる。山本勘助のDNAが導いた道かもしれない。やがて、八重の祖父の時代、藩の砲術師範役を務めることになる。

 八重の祖父は江戸に出て、“高島流”の西洋砲術・銃術を学んだ。高島流とは、近代的砲術・銃術の必要性を痛感した高島秋帆が、長崎で学び、日本流にアレンジした西洋火器の兵術だ。製造から操作法、陣立におよぶ。八重の祖父は高島流を学ぶと、会津に帰り、藩校日新館で教授した。銃の鋳造に乗り出し、火器の改良に努める。

 しかし、会津藩では実践を重んじ、屈強なる精神力をもととする古式の”長沼流”兵法を採用しており、これは会津の気骨のある藩風に合っていて、精神会津兵を育んだものの、ややもすると固陋に陥りがちな弱点も内包していた。そのためもあり、八重の祖父が会津で教授した科目は不人気であったらしい。

 幕末維新に向かう時代に生を受けた八重の頃、山本家は格式としては中級クラスの藩士だった。八重の十七歳年上の兄である山本覚馬の伝記である「山本覚馬伝」によれば、権八の家様は十人扶持、覚馬の代には十五人扶持だったとある。覚馬は、権八の長男だった。兵学を伝授する家系に育ったため、二十二歳で江戸に出て、西洋砲術・銃術の研究を深め、やがて会津に戻り、のちに、藩校日新館の教授となった。祖父や父と同じ道を歩んだのである。

 こうした家系に育った八重が、銃器に親しみ、男勝りの性格になるのは自然の流れといえる。家庭から大きな影響を受け、砲術はもちろん、西洋文明にも目を開いていく素地があったことはいうまでもない。

 八重は、会津藩砲術師範役の家に生まれた。祖父も父も兄も、西洋砲術である”高島流”を学び、藩校日新館で兵学を教授している。そのような家庭環境で育った娘は、裁縫よりも家業である兵学に興味を抱いて育った。十七歳年上の兄覚馬は、日新館の香才だった。会津藩士の子弟は、十歳になると藩校への入学を義務づけられ、会津藩は教育に熱心だったことがうかがえる。
日新館は日本でも有数の規模を誇った。生徒たちは朱子学・軍学・算術・弓術・馬術・槍術・剣術などを学ぶ。しかし、女子の入学は認められていない。八重はそれが悔しかった。だが、幸いなことに妹の気持ちをくむ兄がいた。

 覚馬は藩に優秀さが認められ、二十二歳で江戸に遊学し、佐久間象山の塾に入り、洋学を学ぶ。塾では勝海舟らと交流した。いったん帰国し、二十五歳で再び江戸に向かい、西洋砲術と闘学を学ぶ。会津に戻ったのは二十八歳で、日新館で砲術を教える一方、蘭学所を設けて教授を務めた。

 八重には覚馬がまぶしかったに違いない。実は会津藩士の男子は、六歳になると、「什(じゅう)」という、いわば男子のみのクラブに入る。ここでは午前中は勉学し、午後は遊びの時間となる。だが、その間に、「什の掟」といわれる規範を読み上げる儀式があった。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には個辞儀をしなければなりませね
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませね
七、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
  ならぬことはならぬものです

 会津藩士の男子は、この掟を頭に叩き込まれて育つ。成長して通う日新館にも「童子訓」という教えがあった。会津藩五代藩主容頌(かたのぶ)が定めたものだ。全三十ーか条で、朱子学に基づいた忠孝の道を説く。父母、主君の恩を敬うこと、人たる道を外さないことなどが記されている。

 女子である八重は、「什」にも日新館にも入ることはできなかった。だが、「付の掟」と「童子訓」を七歳のときには暗記していたという。家庭で父や兄から学んだのである。これは会津藩士の女子に共通していたらしい。というのも、自分が母親になったとき、子に藩の訓示を教育できないからだ。もちろん、八重は娘らしい教育も受けた。だが、父や兄から砲術を学ぶほうが性に合ったようだ。裁縫教室が終わると、急いで家に戻り、砲術の稽古に励んだという。血筋ゆえだろうか、八重の腕はめきめき上達する。みずからに厳しい稽古を課すだけでなく、のちには少年にも教えた。その教え子の何人かが、白虎隊士となる。白虎隊の悲劇については今回は詳しく書かないが、八重は戊辰戦争のさなかに数々の悲劇に直面することになる。

 山本八重のその後の軌跡については改めて書きたいと思う。

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