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現代につながる150年前の「琉球処分」

 1871(明治4)年10月。首里の琉球王府に年貢を納め終わった宮古島と八重山の貢納船が那覇を出港したあと台風に遭い、宮古島船一艘が台湾の南東部に漂着した。乗員69人のうち3人が溺死、残る66人は上陸し、山中をさまよった末に迷い込んだ原住民パイワン族集落である「牡丹社」の「生蕃」にに助けを求めた。

 「生蕃」とは清朝の支配を受けていない先住民の少数民族を意味する。集落の人たちは貴重な水や芋を分け与え救助したが、遭難者たちは逃げようとした。言葉や文化の違いから、スパイと誤解され54人が首をはねられ殺害される事件が起こった。難を免れた12名は、近隣の客家人に保護され、福州、長崎、鹿児島を経由して、7か月後にようやく那覇へ帰還することができた。

  琉球の帰属問題を抱えていた明治政府は、くすぶる士族の不満を解消する手段としてもこの事件を利用、琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして清朝が処罰できないなら、自ら討伐するとして、1874(明治7)年5月、西郷従道率いる3600名の軍隊を出動させた。遠征軍は牡丹社の頭領親子を殺害したが、マラリアで500人以上が死ぬという事態となった。

 清朝は、日清修好条規に定める領土の相互不可侵の項目に反するとして抗議したが、近代装備の海軍が未完成であったため開戦に踏み切れなかった。日本軍の西郷従道は台湾出兵中に、3年前に殺害された54名の遭難者を自国民として屏東県車城郷統埔に「大日本琉球藩民五十四名墓」を建立した。この墓の碑文の「大日本」から、琉球が日本の一部であることを内外に表明したことになる。

 当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国とされ、両国間でその帰属を巡って対立が生じ始めていた。明治政府はこの琉球島民遭難事件を琉球帰属問題に利用しようと考え、さっそく外務卿副島種臣が清政府に打診したところ、清朝側は、琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではないとし、台湾の生蕃については清朝の「化外の民」(統治範囲外の人々)であるから、関係がないと答えた。

 明治政府は大久保利通が自ら北京に赴き、北京駐在のイギリス公使ウェードの仲介によって妥協を成立させ同年 10月31日、日清互換条款を締結した。イギリス及び諸外国は、日本と清の戦争はアジアを不安定にし、貿易活動に障害となることを恐れたのであった。この妥協では、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、償金を50万両支払うという内容であった。その和解書の文面に「台湾の生蕃かつて、日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文があったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めた、と解釈し、琉球併合を推し進めることとなる。

 1874(明治7)年の日本の台湾出兵は「征台の役」ともいわれた近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが盛んに征韓論(外征論)という朝鮮半島への出兵を主張していたが、大久保利通ら政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立していた。

 台湾でおこった問題は、朝鮮問題と並ぶ琉球帰属問題というもう一つの領土問題の懸案だった。台湾に対しては内治派の大久保らも出兵を推進しており、明治政府の基本姿勢は外征を全く否定するものではなかった。台湾出兵によって清朝に琉球が日本領であることを認めさせてた上で琉球帰属問題を解決させた明治政府は、1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を置くという琉球処分(琉球併合)を可能にした。台湾出兵から20後の1894年には日清戦争となり、その結果として下関条約で台湾の日本への割譲が決定される。台湾出兵は日本の中国侵略の第一歩という意味をもっていた。

 2024年、近代日本最初の海外派兵である「台湾出兵」から150年を迎える。琉球処分以前の台湾出兵に琉球人は一人たりとも出征していない。事件翌年に藩へ降格させられた琉球王の尚泰も、明治政府に対して出兵中止を要請していた。日清両属の現状維持を望み、清国を刺激しないようにとの意図があったためだ。日本の台湾出兵の目的は琉球の領有権を主張することにあり、問題の本質は琉球の帰属あった。史実の即して考えれば、琉球は台湾出兵の被害者なのである。

 台湾出兵から150年、今も「琉球人」は日本という国の被害者になっている。新聞報道には「沖縄の民意より国の公益」という言葉が躍る。2019年の沖縄県民投票で辺野古の埋め立て7割超の県民が反対という結果が出た。しかしながら、国は「琉球の人たちの民意」をガン無視して代執行に踏み切った。

 東日本大震災の地震と津波の被害について、当時の復興大臣が自民党の政治資金パーティで、「まだ東北、あっちの方でよかった。」ととんでもない発言をして問題になったことを思い出した。
 
 結局、政治家たちは永田町と自分の選挙区さえ被害に遭わなければ良いということだろうか。


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