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東大寺の大仏と節分の背景あったのは感染症の流行!

 「日本は昔から天災が多かった」とよく言われるが、実際のところ、火事や地震よりも、人々が恐れていたのは「疫病(流行りやまい・感染症)」だったようだ。疫病が流行るのが一過性の火事や天災よりも怖いのは、コロナ禍を経験した私たちにはなによりも実感できるのではないだろうか。

 日本最古の歴史書である『日本書紀』には、崇神天皇即位5年(3世紀初期)、「国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」という記述がある。当時、中国ではちょうど後漢が滅んだ頃であり、中国本土の混乱から逃げようと、朝鮮半島や日本へやってきた人が大量にいたことだろう。いつの時代もグローバル化、つまり、文化の交流と疫病の流行はセットなのだろう。

 グローバル化がさらに進んだ奈良時代の天平9(737)年、疫病が爆発的にひろまった。遣唐使によってたくさんの文化が持ち込まれた頃、同時に疫病も持ちこまれ、疫病(おそらく天然痘)は、九州から広まっていった。

 729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、奈良時代の最盛期で、天平文化が花開いた。一方で、地震や疫病の大流行があった。天平6(734)年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起きた。生駒断層の活動が疑われており、誉田山古墳の一部が崩壊した。その直後、天平7(735)年から9(737)年には、天然痘と思われる疫病が大流行した。総人口の3割前後が死亡したも言われている。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が病死した。天平7(735年)に大宰府に帰国した遣唐使や新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性がある。この疫病は、藤原四兄弟にとどまらず、当時政治を担っていた公卿たちをも襲い、その約3分の1が亡くなったと言われる。

 地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、天然痘の大流行により荒れ果てた国土を回復させ、社会を安定させるために開墾地の私有を認める墾田永年私財法を出しさらに、、仏教の力を借り、国分寺や国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺と法華寺を建て、大仏を建立した。東大寺にある盧舎那仏の建立は、「天下の富を有つは朕なり。天下の勢いを有つは朕なり。この富と勢いとを以てこの尊き像を造らむ。事成り易く、心至り難し。動植咸く栄えんことを欲す。」という詔の言葉にあるように、聖武天皇が人間だけでなく動物や植物も共に栄えることを願い、仏教の理想の世界を人々に浸透させようとするものだった。天皇が一方的に与えるのではなく、人々の願いの集大成としての大仏とするために、当時の人口の約半数に当たる人が私財や労力を捧げて協力した。盧舎那仏(大仏)の建立は、天然痘によって疲弊しきっていた社会が立ち直る精神的な拠り所になったのだ。

 天平文化成立の裏には、感染症と大地震があった。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた追儺(旧暦の大晦日に疫鬼や疫神を払う儀式)に起源があるそうだ。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、天平の疫病との関わりが想像される。奈良時代の歌集『万葉集』には、流行の感染症が「鬼病」という言葉で登場している。

 「鬼病」とはもともとは仏典用語として「鬼にとりつかれた病気」のことを呼ぶ言葉だが、そこから疫病のことを意味するようになった。節分行事で「鬼は外」と唱えたことがある方は多いと思うが、実はあの「鬼」とは「疫病神」のことなのだ。もとは中国の宮中でおこなわれ、節分のもとになった行事「追儺」では、鬼の姿をした者が疫病で人々を苦しめる「疫鬼」に見立てられた。つまり、疫病をもたらす鬼を追い払う行事が節分だったのだ。「感染症は外に出ていけ」というのが「鬼は外」の意味だった。

 聖武天皇は仏教にあつく帰依し、仏教による救済を願って、東大寺の大仏建立に着手した。天然痘の大流行がなければ、東大寺の大仏は存在しなかったかもしれない。天然痘という感染症の流行が、約1,200年後の世界遺産を生み出し、社会制度すらも大きく変えるきっかけになったのだ。世界遺産の視点から言えば天然痘流行後の聖武天皇の行いは光の面と言えるものの、その裏には影の部分もある。

 感染症に悩まされた奈良時代、仏教は国家の宗教となり、幾多の寺が建立された。感染症がここまで広まっていなかったら、日本の歴史と文化は大きく変わっていたことだろう。


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