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怨霊から神様に格上げされた菅家

このたびは幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに                                                          
                                菅家

 百人一種の24番目の歌は作者が菅家となっている。学問の神様と名高い菅原道真のことだ。菅原道真は、怨霊として恐れられ、神と祀られた道真は平安王朝の悲別のヒーローとして記憶に刻まれている。

 「今度の旅は急のことで、道祖神に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるので、神よ御心のままにお受け取りください。」という内容の歌の舞台となった宇多法皇の行幸には、王朝絵巻の世界が連想されるが、道真の悲劇はこの3年後に起こるのだった。

 「古今和歌集」には「朱雀院(宇多上皇)の奈良におはしましたりける時に、手向山にてよみける」と書かれている。宇多上皇が昌泰元(898)年の大和行幸のおりに詠じたもので、歌意は手向山 (大和から山城への途上の奈良山の峠で楓の名所)の紅葉を錦にたとえ、敬神への想いが語られる。

 道真が右大臣へと昇進したのは、この歌の翌年昌泰2年のことである。宇多譲位後、新帝醍醐天皇の時代のことだ。文章道の家柄に属した道真の破格の人事は、その力量もさることながら、宇多の寵臣たるところが大きかった。道真は娘の衍子を宇多の女御に、さらにその妹丁寧子を後宮に、さらにもう一人の娘も宇多の皇子斎世親王の室に入れ、藤原氏ばりの婚姻政策を実行していた。

 寛平6(894)年、道真の建議による遣唐使廃止も、その理由の一つは、王権の絶対性の強化にあった。遣唐大使に任ぜられた道真は、「遣唐使を停止すべきだ」とする建白を出し、承諾されたのである。すでに唐の文化を学び尽くし、かの地の治安も悪化しており、60年近く遣唐使は派遣されていなかったからだという。外交政策の転換を宇多天皇治政下で断行することで、外交権は天皇の専権に属することへの意思を示そうとした。それは、新たなる国策の決定は、神と人が同居する存在、すなわち天皇により可能だとの考え方に行きつく。「神のまにまに」と、宇多上皇との大和行幸の旅路で詠じた道真の心中に、自己と自己を取りまく新しい世界への構想もあったと思われる。

 寛平9(897)年、宇多天皇は13歳の息子・敦仁親王(醍醐天皇)に譲位した。このとき宇多は醍醐に「道真と藤原時平の助言を得て政治をとるように」と訓戒している。このため醍醐天皇は、道真を右大臣にした。

昌泰4年(901)には、藤原時平とともに従二位に昇進している。藤原時平は策謀を用いて道真を政界から追放する。菅原道真左遷の詔勅が下されたのだ。それは「止足ノ分」を超え、「専権ノ心」をもち、醍醐天皇の「廃位ヲ行ハント欲シ」たがためとする。中級貴族である菅原道真が藤原氏と肩を並べたわずか18日後、大宰権帥だざいのごんのそちに落とされ、九州の大宰府に左遷されることが決まったのである。

 醍醐天皇は、宣命(和文体で記した天皇の言葉)でその理由を明らかにしている。「朕が即位した際、父・宇多上皇の詔によって、左大臣・時平らと協力して政治をおこなうように命じられた。なのに低い身分から大臣にのぼった道真は、分をわきまえず権力を独占した。宇多にへつらい欺き、その気持ちを思いやらずに皇位の廃立をたくらみ、父子、兄弟の慈しみや愛を破ろうとした。これは皆が知っていることだ。ゆえに右大臣の地位はふさわしくないので大宰権帥とする。」

東風こち吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

 上の歌も『拾遺和歌集』にある有名な歌だ。「流され侍ける時、家の梅の花を見待て」とあり、筑紫への下向のおりのものだ。『大鏡』にも流謫の身となり失意の道真の心持がつぶさに語られている。配流から2年、延喜3(903)年に冤罪が晴れることを信じつつも、望郷の思いの中で道真は死去した。

 道真の無念さは、王朝内部の不吉な出来事と結びつけられる。延喜8(908)年、政敵の一人、藤原菅根が死に、ついで翌年には道真を陥れた藤原時平も39歳の若さで死去した。とりわけ、延喜23年3月、醍醐天皇の皇太子保明親王の急死は大きかった。「天下ノ庶人、悲泣セザルハナシ、其ノ声雷ノゴトシ、世ラ挙ゲテ云フ、菅師ノ霊魂宿忿ノナストコロナリ」(「日本紀略」)とある。保明親王の母は藤原時平の妹穏子だった。さらに2後の延長3(925)年)には次の皇太子となった慶頼王(保明親王の子)が天然痘で命を落とす。王の母もまた藤原時平の娘仁善子だった。時平による外戚政治の終わりを告げる一件でもあった。

 『北野天神縁起』で著名な清涼殿の落雷事件はその5年後のことだった。道真の左遷に関わった公卿たちが雷に撃たれて死傷したため、道真が「雷神」になって御所を襲ったものと考えられた。『日本紀略』にはその惨状がつぶさに語られている。かくして道真の怨霊に対する人々の恐怖はピークに達した。醍醐天皇の寛明ゆたあきら親王(朱雀天皇)への譲位はその直後のことであった。このような連続した災厄に悩まされて、醍醐天皇は精神に異常を来たし、病死することになる。

 道真の「怨霊」を鎮め、「祟り」をなくすには、道真を神として祀るほかはないと考えられ、大宰府天満宮や北野天満宮などが造営された。「天満」の名は、道真が死後に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たと言われている。

 やがて道真の怨霊の記憶が薄れていくとともに、また太平の世になるにつれて、道真が優れた学者であったことから、「学問の神様」として崇められるようになったのだった。現在、天満宮は日本全国に12,000社もあるそうだ。

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