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三信鉄道(飯田線)開通はアイヌの功績

 かつて、現在のJR飯田線の三河川合駅から天竜峡の部分を三信鉄道と言った。天竜川に沿って鉄道を開通させるのはかなりの難工事で、当時の資料(鉄道開通報告書)にも「もっとも困難を感じたるは、天竜川に沿い路線を決定すべく限定せられたるため、断崖絶壁の中腹を通過するの止むを得ざるを以って…」と述べられ、いかに鉄道の敷設が険しかったかを知ることができる。

 旭川に生を受けた川村カ子ト(かねと)はアイヌ民族であり、尋常小学校時代はほかの子どもたちから「アイヌ、アイヌ」と罵られ、小学校生活はアイヌ民族への軽蔑や愚弄との闘いだったと後に語っている。卒業後、カ子トは鉄道の測量作業員として奉職する。測量作業員には差別待遇があり、内地人(日本人)の日給が25銭であったのに対し、アイヌ人は15銭だったという。カ子トが測量で歩いた距離は当時の国鉄の半分に及んだという。鉄道雇用試験に合格しようと働きながら勉強するカ子トに対し、周りは執拗に妨害したという。見事試験に合格したカ子トに周りからは「アイヌのくせに」「アイヌに使われたくなんかない」という反発に直面する。カ子トの卓越した測量技術が見込まれ、現役兵として軍隊にも入隊するが、そこでもアイヌとしての迫害は止まなかった。

 昭和5年、断崖続きで測量の困難な天竜峡の測量を任されたカ子トは、その測量をやり遂げると、仕事ぶりの良さを見込まれ、天竜峡トンネル工事の現場監督となる。アイヌ人に使われることに不満のあった作業員たちは、難工事の連続に不満を持ち、カ子トに反発することも度々あったが、カ子トの天竜峡測量への熱意に打たれ、やがて作業員もカ子トを心から尊敬するようになる。

 昭和7年、三信鉄道が天竜峡の難関地を開通するに至ると、カ子トは北海道に帰郷する。晩年、旭川に「川村カ子ト記念館」を創設したカ子トは、「アイヌ民族というものを多くの人に知ってもらいたい。北海道の開拓に努力をしてきたアイヌの子どもや子孫を、いまだに差別し、罵るとはどういうことか、反省を求めたい。アイヌの本当の歴史、姿を日本人に知って欲しい。」と語った。

 ここでアイヌの歴史を振り返っておきたい。
 日本列島の北方地域、主に北海道を中心とするエリアには、アイヌという先住民族が暮らしてきた。その起源は定かではなく、諸説あるがおよそ9〜13世紀頃にアイヌ文化が成立したと言われるほど、長きにわたる歴史と文化を持つ民族だ。アイヌは日本語とは異なる言語体系を持ち、人間の周りに存在するさまざまな生き物や事象を「カムイ(神)」として敬うなど、独自の信仰や精神文化を切り開いていった。北方の厳しい自然環境を生き抜いてきたアイヌは、クマやシカ、サケやアザラシなどを中心に狩猟や漁猟を行い、山菜を採取し、動物の毛皮や木や草の繊維などからさまざまな衣服をつくっていた。またアイヌは樺太や千島列島など広範囲に分布して暮らしており、どの集落も周辺地域のさまざまな民族と交易を展開して生計を立てていた。クマやラッコなどの獣の皮、昆布や干し鱈などの乾物、また美しい刺繍や木彫りが施された工芸品などといったアイヌの生産品は、日本を中心に各地で取り引きされていった。

 しかし、時は1603年、日本では戦国時代が終焉を迎え、徳川幕府が全国を統一する江戸時代が到来する。その翌年の1604年、江戸幕府は北方エリアを領地とする松前藩に対し、アイヌとの交易を独占するように命じている。これがアイヌにとって苦難の道の始まりだった。それまで各地との交易によって富を得ていたアイヌは、自由な交易を阻害されたばかりか、松前藩はアイヌに不利な交易条件ばかりを提示し、次第にアイヌの人々の生活は貧しくなり、また厳しい環境下での労働を余儀なくされていく。このことに反発したアイヌは和人に対する敵対感情を次第に高め、1669年には松前藩に対し蜂起を試みる「シャクシャイン戦争」が勃発する。元々は民族間の諍いから始まったこの戦争は、和人とアイヌ間における史上最大の戦争へと発展。最終的には松前藩が和睦を申し出たが、その酒宴の場でアイヌの首長シャクシャインほかを謀殺し、これをきっかけに北海道全域にいるアイヌに対し絶対的な主導権を握るようになっていく。

 その後、徳川幕府の終焉とともに日本は開国し、1868年に明治政府(日本政府)が成立すると、その翌年には北海道地域の開拓を目的とする官庁「開拓使」が道内に設置される。それ以降、文明国への発展を目指す日本政府はアイヌ文化を野蛮なものとみなし、アイヌ語の使用や文化の継承を抑制する同化政策を推進。アイヌの多くの土地は没収され、主な収入源だったサケやシカの狩猟が自然保護の名目で禁止されるとともに、名目上はアイヌの保護を謳いながら、極めて差別的な名称を与えた「北海道旧土人保護法」が1899年に制定されると、日本語を義務化するような植民地主義的な政策が法的根拠を持って実施されるようになっていく。この保護法は1997年に廃止されるまで約100年もの間継続し、アイヌの人々は言われのない差別と圧政に苦しみ続けた。

 ちなみにアイヌ語には文字はなく、すべて口頭伝承で様々な知恵や文化、神話を語り継いできた。日本語として普通に使われているアイヌ語と言えば、「ラッコ」「シシャモ」「トナカイ」などがある。また、元はアイヌ語だったが、日本語としてそのまま使われているアイヌ語の地名には、「稚内 = ヤムワッカナィ(冷水のある川)」「小樽 = オタオロナイ(砂浜の中を流れる川)」「札幌 = サッポロペッ(乾いた広大な川)」「富良野 = フラヌイ(臭い匂いのするところ)」「知床 = シリエトク(大地の先端)」「登別 = ヌプルペッ(濃い川)」「襟裳 = エンルム(突き出た岬)」「国後 = キナシリ(草の島)」「択捉 = エトゥオロプ(広い島)」などがある。
 なお、川村カ子トの三信鉄道での偉業については、名古屋市にある「ゾウ列車合唱団」にて合唱劇として語り継がれている。

  

 



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